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Noteが作る世界 〜 繋がっている人としか世界は存在しない世界 N100

 Noteをはじめて気がついたことに自分のフォローとフォロワーで繋がるネットワークは非常に価値観が近いということだ。当初より自分としては未知の知を楽しもうと自分の知らない分野や年の離れた世代の人たちに積極的に近づこうとフォローをした。むしろノイズのような人たち(おかしげな商売を行なっていたり、ギャンブルの情報だったり)を除いてフォローをしたつもりだった。  

 しかし気がついた頃には自分の価値観と共有できる人で構成されるクラスターに自分は包まれていたのだ。このクラスターは当たり前だが個々人毎に形成される。フォローしている人とフォロワーされている人の集合体だ。  

 このクラスターにいる限り、その人間はある意味自分の価値観に合う情報だけを得続けることになる可能性がある。それは自分の価値観に合う人のメッセージしか受け取らないからだ。Noteを読むことも書くことも恐ろしいほどに心地よいのはそう言ったことが背景にある。Lineでは誰々君のママの発言が気に入らないとか、ヤフーコメントでは誹謗中傷を書き込む人がいたりするが、Noteは基本的に自分でクラスターを作ることができるのでクローズドであるが強度も高い。 

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 これは最近のパーソナライズドされたオンライン広告にも当てはまる。広告業者、あるいは広告掲載者は一律に同じメッセージをもはや送ろうとはしない。属性毎、タイミング毎に細分化されたメッセージを送ることが今は一般的になっている。したがって広告自体も心地よくなっている(心地が悪い広告こそ悪の時代に突入している)。

 しかしながらこの純潔的なクラスターは実際の現実社会にも起こりはじめている。他人とは挨拶をしない時代ゆえ異質な人と会話をする機会はなくなり、監視社会ゆえ変質な人に襲われる機会も減ってきている。また子供なんかは親の所得の似通った人たちと学校生活を送るので自分とは違う世界の人たちを知ることは不可能になっている。  

 つまり自分の価値観だけで過ごすことが可能だし、ほとんど自分の価値観だけで過ごしているのだ。ごく稀に異質なものとぶつかったりすると非常に強いストレスを感じる。例えば電車で隣の席に座った人がタバコ臭いことに嫌悪するとか。コンビニの店員が投げやりな対応でレジを打ったとか。一昔前なら気にも止めなかったことに嫌悪感の強度も増しているのが最近起きていることではなかろうか? 

 ここまで思考したところで新しい実在論(*1)とこのNoteのクラスターが近いことに気がついた。もしかするとNoteによるデジタル技術がそれを実証的に証明したことなのかもしれないし、あるいはソーシャル技術が新しい実在論を生み出したのかもしれないが。  

 そうなると全体を考えることはできないし、全体を考える意味すらもないのかもしれない(関わることのないことを考える必要はないし、わからないものに何らかの答えを出すことは虚偽か偽善でしかない)。極端なことを言えば、それは地球外の惑星系の生き物について考えることと似ているのかもしれない。  

 このソーシャル技術はますます広がることは間違いない方向性だ。自分のクラスターの外は太陽系外惑星系のような真っ暗な世界だ。しかし一つだけ希望が持てることは世代を超えた結びつきが生じる可能性が非常に高いことだ。平野啓一郎さんのネットの推進する多様性よりその可能性を指摘したが(*2)、Noteでの私の経験はその可能性を確信に変えさせた。

1*) マルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」 

2*) 平野啓一郎「「カッコいい」とは何か」   

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