見出し画像

「文化」は名詞か形容詞か

by 古家 淳

 先日アップしたFIGT Japanのイベントレポートで「『文化』という用語自体、調整のためのツールであり、動詞として考えるのがふさわしい」と書いた。それで思い出したのが、かつて書いたこの文章。初出は「私情つうしん」#1(1995年6月)です。
 なお「私情つうしん」とは、「数人の元・“帰国子女”のワクワクする思いから生まれ、海外/帰国子女や異文化、コミュニケーション、アイデンティティ、教育などの話題から輪を広げる」ニュースレターで、2002年に#24を出して以来、#25が準備中になっています(苦笑)。
 なお、この文章の英語版はこちら


 去る九月に一橋大学が主催したシンポジウム、『多文化主義時代における世界と日本』において、おもしろい話題があった。たとえば外国において「日本文化」を教えるに当たって、それをどう定義すればよいのか、という疑問がフロアの参加者から出されたのである。それまで、国境を越えた多(異)文化ばかりでなく、一つの国民国家の中にも主流とされるもの以外にさまざまな少数者がいて、それぞれに独自の文化を担っているということが話題にされてきた中でのことなので、この質問はアイヌや在日外国人などを視野に含めたものであった。

 これに対してパネリストの答がどうであったかは失念したが、内心ヒザを打ったのは、英語と日本語における〈多文化〉の内容が違う、ということであった。英語では、multi-culturalと表記されている。日本語では、これに対して「多文化」である。英語では形容詞であり、日本語では名詞である。日本語で質問した参加者の頭の中には、無意識ではあっても〈文化〉というものが名詞であって、したがって何らかのまとまりをもって定義づけられる〈もの〉という前提があったのではないだろうか。これに対して外国人を主にするパネリストには、この場では少なくとも、〈文化〉を固定的でない〈こと〉としてとらえるイメージが湧いていたのではないだろうか、と思った。

 もしも「日本文化」を〈もの〉として定義づけなくてもよいのなら、たとえばアメリカの現地校で〈日本〉について教えるとき、もしそこに日本人の子どもが一人でもいれば、「あなたの家の食事のメニューを一週間分、持ってきて下さい」でも十分に教材になる。必ずしも浴衣で七夕を祝い、お雛さまを飾って盆踊りをするばかりが〈日本文化〉ではない。また歌舞伎や相撲あるいは金閣寺、源氏物語を語ることばかりが〈日本文化〉ではない。アメリカに住む日本人の家庭での食卓にはおそらくハンバーガーもあればスパゲッティもあり、ご飯もあれば味噌汁もあるだろうが、毎日テンプラ、スシではないはずだ。そしてそのこと自体が、現代日本の家族生活の一部をみごとに表現していることになるだろう。たしかに、一つだけの例をもって一国の文化を語るには、いくつかの前提が必要となる。「すべての日本人が同じ生活をしていることはない」というのは、その中でもいちばん大切なものだろう。また同じ一家の食卓でも、その内容はつねに変化している。

ある旅館で提供されたおせち料理
たしかにこれも「文化」の一つだろうが・・・・・・

 冒頭であげたフロアからの質問は、一例としての日本人の生活ではなく、全体としての日本の生活や文化をどのように代表するべきかを問うている。どうしても代表を求めなければならないのなら、たしかにこの質問は非常に答えにくい。統計や各種の調査などを持ち出して「平均」をさぐり、ステレオタイプをつくりだすしかないだろう。だがそのとき、具体的な個人のイメージは失われ、複雑で流動的な実体は固定されてしまう。そして恐ろしいのは、ステレオタイプが一人歩きしていくことである。日本人と見ると〈日本人〉のステレオタイプをまず考え、目の前にいる個人ではなく先入観による幻影を見てしまうことは、容易に差別への道を開く。

 このシンポジウムでは、繰り返し「多文化時代の到来」が語られた。それはもちろん国境をはさんで多くの異文化が共存する地球のイメージでもあったが、それと共に従来の国民国家の枠組みがさまざまなかたちで壊れ、国家自体がその中に内包する異文化によって変容を迫られていることの指摘でもあった。もはやサブカルチャーやカウンターカルチャーと呼んで傍流に位置づけることではすまされない、先住民族や少数民族による文化の存在、さらには価値観の多様化に伴う〈主流〉の内側からの崩壊。そして交通・通信の発達によって無意味になっていく国境の壁。外国人どころか、自国民でさえも諸外国から異文化を持ち込んでくる現実。また、個人個人を見てもその生き方や考え方、価値観はつねに揺れ動いて変貌を続けている。

 〈文化〉はもはや、名詞や形容詞ではなく、動詞として考えた方がふさわしいぐらいダイナミックな〈現象〉となっている。こうした中、「文化」も「アイデンティティ」も、もはや個人レベルで考えなければ容易に答が出せないエニグマとなっている。事実、このシンポジウムでもパネリストの口から繰り返し「個人のことは簡単に語れるが、集団になるとなぜこうも難しくなるのだろう」という嘆きが聞かれた。「a Japanese」のことは語れるが、「the Japanese」のことは語れない、と言うのだ。「〈文化〉とは、人種や民族によって定義されるものではなく、個人の行動や態度、価値観やエトスによって定義される〈世界を自分の見方で名付ける仕方〉」だという言葉も出た。

 「文化」はここにおいて「アイデンティティ」と同一のものになる。そしてそれはたとえば〈日本文化〉に帰依し〈日本人としてのアイデンティティ〉を確立した〈日本人らしい人〉ではなく、〈個人としてのアイデンティティ〉を確立し自らの〈自分化〉を果たした〈自分らしさ〉を目指すことにつながる。その上で、すべてそれぞれに異なる他人と共に、限られた地球で生きていくのである。

 よく言われる「Think globally, Act locally」に加えて、「Be personal」の時代がやってきている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?