現代ポーランドの歴史・地理・社会的背景(1)

現在ポーランドや欧州近隣地域で起こっている事を理解するため、この大前提となる歴史的バックグラウンドを簡単にまとめてみたい。

分割時代
ポーランドは18世紀末期に、当時の欧州列強であったロシア、プロイセン、オーストリア3国により国土を分割支配された苦い歴史を持つ。1772年、1793年の第一次、第二次を経て、1795年の第三次分割により独立国家としてのポーランドは完全消滅。その後、半独立状態にあった期間を経て、1918年に完全に国家独立を取り戻すまで123年間にわたり列強国の支配下におかれていた。支配地域では統治国が自国の行政・法制度、諸慣習を導入し統治に当ったため、工業的発展を遂げたプロイセン支配地域、小作農が歴然として残ったロシア支配地域、比較的緩やかな統治でポーランド独自の文化が保たれたオーストリア支配地域というように、諸地域はそれぞれことなる発展を遂げる。

第二次大戦による国境変更
独立を回復して間もなく起こった第二次大戦では、人的・物質的な損害を被ったのみではなく、終戦後には、領土が西へ約250km動くという大規模な国境変更が行われた。この際、ドイツから割譲された西部ではドイツ人の強制移住が行われ、約1000万人が同地を後にしたと推定されている。同地域にはその後、国境移動によりポーランドが失った東側地域(現在はウクライナ、リトアニア領土となっている)からの約200万人という大量の国内移民が流れ込んだ。


西部地域、つまりブロツワフやシュチェチンを含むドイツ割譲地域では工業化が進んでいたが、集約農業も行われていたため、共産主義体制下ではポーランド政府主導の国営農業(PGR)の基盤となった。一方、戦後ウクライナ領となった地域を含む東部地区では農業が主要産業で小作が中心であったが、国境変更で縮小したことになる。この結果、それまで国土のほぼ中央に位置していた首都ワルシャワが、大戦後には大きく東へずれた。
 また国境変更とともに、第二次世界大戦によるユダヤ人の大量虐殺や欧州外への移住により、国内におけるポーランド人の割合が98%を超えるという民族的単一性が強い国家となった 。このため、国内における民族・宗教的対立は少ない。

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