環境問題をテーマにする際の疑問点

環境問題をテーマにする議題というのは世の中で大変多くなっている。
議題が多くなっていることは関心が強い話題である、という点では喜ばしいことであろう。
しかし一方で、疑問を呈さなければいけないことも多々ある。

「環境破壊を繰り返す」「科学の問題」
私個人としては科学の問題ではないと考えているのであるが、一方で世の中では、科学の問題として最終的に文章が締めくくられているものを見る。
 なるほど、科学技術が発展し、複雑なものを作り出せるようになったから複雑な問題が起きるようになったという主張。思考法として一理あるであろう。
 科学的なものよりも自然の方がいいという主張。有機農法と無機農法あたりの話であろうか。なるほど、言いたいことはわかる。
 人間が生み出した科学技術の結果であるプラスチックが海洋を汚染しているじゃないか。なるほど、結論は確かにそうだ。

だが、ここで深呼吸してほしい。
前提として「科学」というものを何であると考えるか、という話が第一であろう。
多くの論争の根元になってる「科学」と「自然」という言葉の定義をまず共有しなければいけないのではないでしょうか。
科学とは、再現可能な事象とその学問、思考方法。といえるであろう。間違っても、「万全で十全で完璧ななんかすごいもの」ではないのである。むしろ、不完全で不十分でどうやら確からしい欠片の集合体である。常にあくまで「その時点」での思考として直接証拠や関節証拠を積みあげた結果、納得できる範囲のもの、ということなのである。
 考えてみてほしい。
物質が何からできているか?と聞いた際に、原子と分子までは、中高で習う。そして、原子は最初こう習ったのではないか?
「物質の最小単位でそれ以上分けられない物」とおーそうだそうだーと。
だが待ってほしい、「原子は陽子・電子・中性子からなる」という。この時点で最初の最小単位で分けられないが矛盾しているのだ。
そして、この陽子も、素粒子なる物質で構成されており、クオークが・・・とかいう話らしいのである。すでに、最小単位ではないか。もはや大前提が崩れている。科学は崩壊している、なんてことはもちろんない。

何ゆえ、こんな話になるのかといえば、それ自体が学問的な理解へのたどった道だからである。そして、素粒子の話から初めて、科学へのアプローチをしようにも普段の理解の中ではほぼほぼ関係ないので難しい知識を得た割には何一つわからないのである。地球とアンドロメダ銀河の距離を光年単位とキロメートル単位で覚えたところで実生活にはとんと結びつかないのと同じである。
かつてはパラケルススの錬金術や燃素説など様々なアプローチで、物質とは何であるか?を解明しようとした時代があった。その過程で、「原子というものを考えると理論が合うぞ」となった。しかし、合わない部分が出てくる。「分子」という考え方をすると理論が合うようになった。しかし、ごく小空間であったり微小な話をしていくと話が合わない。そこで原子とは陽子電子中性子から成り立つ。という話に細分化していくわけである。世界を構成するものをどう見るのか、そしてどう合理的な説明をするのかという話である。

そして、今の話は物質であったが、よく考える「科学・理系」というと「物理」と「化学」と「生物」が脳裏に浮かぶかと思う。
これらも「現実世界をどういう事象の切り口として見るか」である。
化学であれば、物質の変化を主軸に
物理であれば、エネルギーの変化を主軸に
生物であれば、世界の事象の中で自分たちを含む生物に関する現象と物質とエネルギーと法則に限定しているのである。
地学は?といわれる人もいるかもしれない。
地学では、やはり人間が密接にかかわる大地そして、大気についてという切り口で焦点を当て、その物質物性エネルギー、特性などを詳しく考えていくものである。

ここが「科学」とは、あくまで「再現可能な事象とその学問、思考方法」と書きたい所以である。つまり、その確認については、特殊な装置が大半であるが再現可能でかつ、その間接的証拠(傍証などともいうが)を積み上げていった結果「どうやらこうらしい」を繰り返してできたものである。つまり、パーフェクトなものではなくて、「その時点における科学的事実」というのは、わかった範囲ではこうだったよ!というものであったり、それを見出すための中間説明なのである。
なにより、ノーベル賞が毎年受賞される時点で逆説的にこうも言えるのだ。
「科学ってのはね、なんていうか、こう、霧の中で、明確なものをなんとか見出して、共有するための探索者なんだ」と科学が完璧で瀟洒でエレガントでスマートでかっこいいなら(いや、カッコいいとおもうんだけど)今なお研究者がいることが矛盾になるのだ。なにより、大半の研究者はデスクの上にいるよりも実験をしてる方が長いため肉体労働と頭脳労働のミックスなんだ。研究者はまだわかっていない「その研究者が知りたいこと」を調べるために研究してるのだ。もちろん、研究者が興味ないことを調べないことは多々あるので、意外とわかってないことが身近にはあったりする。イグノーベル賞なんかは、むしろそのあたりを理論化してくれています。面白いですよ。

それでは一体全体、環境破壊って何なんだ。
1.環境破壊とは何なのか
即ち、環境破壊とは何を指しているのか、である。たとえば、土地が決まったサイズの森に草食動物を制限なく増やし過ぎると、森がハゲヤマのようになる。草食動物が食べつくすのである。ハゲヤマ化が起きた山は放置しても元には戻らない。草木の種や種子が飛んでくる?既にいる草食動物に食い荒らされて、何も残らないのである。これでは、山は再生しない。解決しなければいけないだろう。
 重金属やプラスチックによる汚染はどうなんだ?確かに問題である、それによって動植物がいなくなることは起こる。解決しなければならないだろう。
多くの「何かの結果」発生した状況を表す言葉、というのが正しいのではないだろうか。意識的にしている環境破壊とはおそらく非常に少なく、実はみんながよりよくなりたいのより集まった結果ではなかろうか。火山の噴火や大地震、津波などで十分環境は破壊されるし、なんなら、噴火一発起きれば大気の寒冷化や灰による動植物の絶滅などお手軽に起きるのである。人間にはどうしようもない規模の環境破壊だ。同じ規模だっていうなら、核弾頭でもバンバン打つしかなくなる。熱ですべて焼き払うレベルだよね。

2.科学的なものより自然のものの方がいい
なるほど、その主張もあると考える。であるが、自然なものの方がいいのであれば、どこからどこまでが自然なのか。すなわち自然の程度問題とはどこまでなのか?上記のようなハゲヤマ発生もそうであるが、自然に起こることである。また、核分裂反応も人間が人工的に生み出したから~という話もあるが、天然の核分裂炉なんてものが存在するのである、本当ですか、調べてみてください。何それコワイ面白い。(閑話休題)
となると、自然なものとは何であるか、が分類が難しいため、自然がいいかどうか、というのはなやましい。
人が作った化学物質は毒性が強いじゃないか?毒性が強めであったり毒として効果的なものがあるのは事実である。だって、そういう形を意識して作ったから。なお、そんなものよりも自然の毒の方が強力なのである。ふぐ毒って言われるテトロドトキシン食べる?致死量2から3ミリグラムとかっていわれるけど、ざっと・・・砂糖のスティックが3グラムぐらいらしいので、砂糖スティック1袋の1000分の1の量ですね。サリンなんか1.6グラムぐらいでようやく半数致死量らしいので、500-800倍テトロドトキシンの方が猛毒ですね。まぁ、テトロドトキシンもフグじゃなくバクテリア毒ですが・・
あと酸素とかも猛毒ですよ。酸素濃度が倍になると人間死にますから…

3.自然のものは健康にいい
よく聞く話である。ところで、健康にいいの定義は決まりましたか。
例えば、健康にいい行為として次のことが考えれます。
・水を飲む
・運動をする
・ストレスがないように生きる

確かに!ただし、どれも「程度」問題です。水を飲むことが健康にいいからといって、一時間に3Lの水を1日10時間ぐらい飲み続けるとどうなるでしょう?有名な水中毒になって最悪場合死にます。
運動をする!健康にいいですよね!実際ボディビルダーとか肉体美!って感じで健康的に見えますよね!内臓ボロボロになること多いし、寿命短いですけど!なんなら、過負荷掛け過ぎると死にますね。
ストレスがないように生きる!禁煙・禁酒・禁欲はストレスだからよくない!っていって、やりたい放題してる人、まぁそんなに長生きできませんね。そして、体壊して結局薬飲んでますね。生物として強い人は元気で生きてますが…そんな特殊事例比べても・・・比べるならもっとひどい話なりますよ?環境破壊程度健康で強ければ何の問題もないので、対応いる?みたいな・・・

で、あればである。
科学技術が~ではなくて、地球環境・社会環境が悪くなった!問題が起きた!というのであれば、それは人間の欲と行いによるものでしょう。
化学肥料がよくない、とおっしゃる方は「何故化学肥料が生み出されたのか?」を考えてみたことはありますか?
プラスチックが悪いんだ、というのであれば「なぜプラスチックがそこまで広まったのか?」を考えてみたことはありますか?
肥料については、「飢えたくない」という人間の生物的欲求の解消のために生み出されました。食べずに死ぬか、人から奪うかになれば 奪ってでも生き延びる、という人が出てきます。その結果社会の不安定化は起きるでしょう。
プラスチックも同じようなことです、「軽くて丈夫で衛生的で便利で量産できるから」に尽きるでしょう。食事をプラスチックで覆うことで腐敗や雑菌の混入率を下げられ携帯可能になります。もちろん、プラスチックでなくても可能ですが、金属であれば「銅、鉛、錫」などは言わずもがな危険ですが、そのほかの金属も錆びて溶解した一部が体内に入ることも危険です。あと金属重いですし。
陶器であれば、としても「割れる」「重い」「水分混入」などではどうしても不便でしょう。
マイクロプラスチックなんて話については、大部分は「ゴミの回収とゴミ捨てとゴミ処理」の問題です。理論上人間が理性的に行動するのであれば、「ほとんどのゴミは正規のルートで捨てられゴミ処理施設にすべておくられる」はずでしょうから「どこから海に流れ出るのですか?」という話で、理由がありません。CO2がーという話は、まぁ後日。

そして何より、食糧生産量はどうしても下がります。なんなら、江戸時代なんて人口3000万ぐらいで現代の4分の1ぐらいです。農業従事者も今よりも多かったですし、そのうえ今より農地も多かった。それなのに天候不順や疫病あれば飢饉になってるわけです。当時は、魚を肥料にしていたわけですが、それでも何かあれば飢饉ですので全然土地に栄養が足りないんですね。後、たぶん寒い。植物を収穫するには光合成させる必要があって光合成の条件は「温度、光、二酸化炭素」が多い方がいいわけですよ。あれ、人間にとっては地球が温暖化して、二酸化炭素濃度が上がって、オゾンホール空いて強い光が届く方がいいのか?…それは良くないって言ってるんだから…温度下げて、光(太陽エネルギー・紫外線)さえぎって、二酸化炭素減らすと、植物育たないな?
つまり、誰を飢えさせるか?という議論をする覚悟が必要でしょう。

もちろん、解決しないというのか?といわれれば、解決した方がいい問題ばかりですよね。手法としては「科学的に」ということになるかと思います。
新しい技術を使って、誰がやっても同じ現象を引き起こせることを使う。という意味で、ですが。

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