空想論:いじめ

世の中は甘くない。昔からあり続けるものあり続ける。そして、絶えてきたものは消えてゆく。そういう世の中なのである。
いじめ問題。これは、学校と言うコミュニティの中で良くも悪くもひとつの文化となり、今も尚在り続けている。政府や教育機関は、いじめをなくそうといって活動している。道徳観を鍛える、いじめ=悪いものとして教育する。果たして、いじめはなくなるのだろうか。そう活動して、実際減っているのだろうか。私の主観でしかないが、この世からいじめを無くすことはできないと思う。学校から社会へ行ってもいじめは存在する。いじめられていた子が移動してくる、言わば避難所のような学校を作ったところで、そこに来た者たちの中でできた社会の中でいじめが起きる、そんなものではないのだろうか。多様性の世の中と言いつつ、認められないマイノリティーな趣味のもの。いじめというのはそう言う人間という生物の持つ醜い習性なのだろう。
では、どうしたら良いか。私は何の変哲もない高校生なので、答えを断言することは出来ない。しかし、今現状するべきことはいじめの早期発見と早い段階での隔離、治療であろう。そう、難病の対策と同じなのである。つまり、いじめとは難病と同じなのである。早く見つけて対処しないと、取り返しがつかなくなる。最悪の場合、なくなってしまう。性病と同じで、無くすには人と関わらないことしかないのかもしれない。しかし、悲しきかな、人間は孤独に弱い生き物なのだ。他者とのかかわりの中で自分を確立するようにできてしまった以上、1人になることは不可能なのだ。ならば、物理的に一人ではなく、精神的に一人はどうだろうか。いうなれば自立である。私は私、あなたはあなた。みんな違ってみんないいでは無い。みんなはみんな、私は私。これがいじめの根源をなくす方法だと思う。ただ、これが全員できるのならば世の中からとうの昔にいじめが消えているはずだ。弱いものがさらに弱いものを叩く、それがいじめ。ではなぜ消えないのだろうか。それは政府が国民を不安にさせるからである。不安という呪いから逃れられなくなった者は、さらに弱いものをいじめることで、優位にたっていると錯覚し、今後も目を背け続けるのである。なんと哀れだろうか。この先、社会が良くなることはあるのだろうか。今こそ、革命児が必要なのではないか。人の暴露で飯を食うような、居眠りで金を貰うような者に生活を任せて良いのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?