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田舎日記2020-05-05『やり手のオジサン』というキャラクターを巡る話

①『整頓への道』

 先日注文したメタルラックが届いた。ウム。ウチの廊下は暗いので食糧庫のようでワクワクする。ラック周辺の使用目的を失って久しいライダースーツやダンボール等は晴れた日に整理しよう。

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②『サバ缶を活用しよう』

 やどのーち先生に教えて頂いたサバ缶と白菜を煮込んだやつ。話に聞いていた通り良いダシだ。サバ缶は近所の店で90円だったので24個買った。摂りすぎには注意。

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③『やり手のオジサン』

 「やり手のオジサン」というジャンルのキャラクターが存在する。断言するが、過去にこの手のキャラクターが人気の度合いで「パンツを見せる美少女」に負けたことは一度もない。古(いにしえ)からオタクはやり手のおじさんキャラが好きであり、この点を理解していないがためにメディアはオタクに対していつまでも正論を突きつけることが出来ないのである。まあ、それはさておき。

 「やり手のオジサン」のキャラクターにトッピングされるスパイスのお話。「やさしい」という調味料を足せば、「"やさしい"やり手のオジサン」というキャラになる。「皮肉屋」という苦味なら「"ニヒルな"やり手のオジサン」……このようにオジサンは調理されて食卓に並ぶ。お分かりかと思うが、これはキャラクターの創造の話だ。この文章を読んで人肉を連想した人は俺の文章を読むに値する精神状態にないため、すぐに病院に行くことをオススメする。あるいは二度と俺の書いた文章を読むな。

 さてオジサン論に戻ろう。そんなわけで我々は自分の舌でこの「やり手のオジサン」を最も美味しく感じられる調味料を振っていくのだ。まあ、あるいは食卓に並ぶ料理と調和させるための味付けを行っていく。

 僕の大好きな「やり手のオジサン」「だれよりも頭がよくて皮肉屋でユーモアに溢れていて孤立しているやり手のオジサン」だ。海外ドラマでいえば、ドクター・ハウス。国内ドラマならば古畑任三郎。小説なら虐殺器官のジョン・ポール。(この辺りのおじさん像を見失っている点で原作以外の線の細いジョンポールは純粋ではない)

 僕は小説家や芸能人も、この手のタイプの人間は好きになる。

 そして大好きな『ビッグバン・セオリー』という海外ドラマにもシェルドン・クーパーという「だれよりも頭がよくて皮肉屋でユーモアに溢れていて孤立しているやり手のおじさん」が登場する。もちろん僕はシェルドンの大ファンだ。


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 そのシェルドンの少年時代を描いた作品が「ヤング・シェルドン」というドラマシリーズである。勘のいい読者諸君にはお分かりだろうが、この記事のスポットライトは「やり手のオジサンの少年時代」に当てることになる。


④『ヤング・シェルドン』は回を増すごとにうま味が増す

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 「やり手のオジサンの少年時代」を描くのは難しい。とはいえ、いくつかセオリーのようなものがある。重い過去を描ければ、それが悲劇的であるほどにオジサンのうま味は増すし、逆に幸福な少年時代であればオジサンの教養に説得力が生まれるだろう。だが気を付けなければいけないのは「人格形成のドラマがあるかどうか」だ。僕たちの好きなおいしいオジサンに至るためのルーツ(原点)とルート(道のり)を的確に築かなければいけない。大麦や大豆を食べさせて育てた松阪牛のステーキでも、オーストラリアの大地で育った牛のハンバーガーでも、お出しするための信頼は育て方にあるだろう?


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 さて『中学生古畑任三郎』は名作だが、アレに登場するのは「かわいい少年」であったころの古畑だ。僕が古畑に求めているのは「紳士的な嫌味ったらしさ」であるため、それが損なわれた状態の少年時代は些か本来の古畑像から遠い。しかしあの作品はかわいい少年から嫌味な大人に切り替わる瞬間(ルーツ)の物語なので、それはそれで正解である。事実、面白かったしね。


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  では『ヤング・シェルドン』はどうだろう。この作品でシェルドン少年はすでに完成されている。この年齢ですでに高校生といっしょに勉強をしているし、特別授業では自分をバカにしたNASAの学者を黙らせるために新鮮な理論を構築して復讐を企てる。天才しか持ち合わせない知識を組み合わせたジョークは常人には通じないこともあったり、細菌恐怖症を患ってガレージを隔離施設に改造したりする。そう、「大人のシェルドンそのままな」の人物像なのだ。

 というよりも「ビッグバンセオリー」の時点で登場人物たちが彼に対して「天才の頭脳を持った子どもそのもの」といった罵倒を散々ぶつけているため、シェルドンの少年時代といえば納得なのである。

 では何が問題か? クソガキなのである。「やり手のオジサン」が中身そのまま子どもになれば、それはクソガキなのである。

 どれだけ可愛かろうと周囲の大人たちのテンポをかき乱して痛い目に合わないガキが大嫌いな僕は、最初「ヤング・シェルドン」で描かれる彼の少年時代について、愉快な気分ではなかった。観客の笑い声がないだとかセット撮影じゃないだとかいくつか理由はあるのだが、何よりこのドラマのなかには、シェルドンと渡り合うだけの人間は存在しない。彼に仕返しのできる頭脳を持ったレナードたちとは未来で落ち合うため、この時代ではシェルドンはひたすら凡人相手に無双できるうえ「少年だから」という免罪符に守護られている。

 しかし「ヤング・シェルドン」「ビッグバン・セオリー」でのその場でポロッと出したような設定を見事に拾い上げている。コメディドラマの過去編でありながら、ファンが唸るような密接な関連性が組み込まれているのだ。そのような細かなネタを取り入れながら少しずつ加算方式で視聴者のポイントを稼ぐこの番組であるからして、回を追うごとにその面白さが増していく。ハマっていくのだ。


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 さらに「ヤング・シェルドン」では未来でシェルドンがその逸話の数々を口にするあの「ばあば」がレギュラー出演する。この「ばあば」が案の定クセモノであり、作中最も「ずる賢く振る舞う」キャラクターなのである。天才の頭脳を持ったシェルドンに対して年相応の経験と知識、そして言葉選びを駆使して手玉にとっていく場面は痛快である。

 この「ばあば」の出演が多くなってからこのドラマは面白さを増す。さらに阪口大助が吹替え声優を務める「タム」は、この時代における唯一のシェルドンの等身大の友人であり、「ビッグバン・セオリー」特有の人種差別ギャグを一身に担うキャラクターである。

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 (タム少年には悪いが)頭のいいヤツらのブラックジョークがあのドラマのスパイスであったので、このキャラクターの登場は大きい。人種差別や学力差別、州差別などあらゆる「差別」を含む多民族社会を描きながら、それこそ息を吸うように様々な人たちをディスりながら、それでも相手という「個人」との人間関係を描いたコメディドラマが「ビッグバン・セオリー」である。シェルドンは尊敬するホーキング博士(この番組では実在の人物がゲスト出演する)に対して「車輪」というニックネームをつけ、車いすをネタにしたブラックなギャグを混ぜ込みながら痛快なストーリーを展開し、最後にはリスペクトを示す。その姿勢こそ、僕がこのシリーズを愛する理由である。

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 そのようなわけで『ヤング・シェルドン』を視聴しながら漠然と考えていたオジサンの話をさせて頂いた。云いたいことは最初にすべて云ってしまった感があるが、オジサンの少年時代を面白くするのも、やっぱり『やり手のオバサン』『毒っ気』である。


 

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