新しい宗教を創ろう #9
ウクライナが空爆されようと、ギャングが抗争を始めようと、私達は私達の生活を送るしかない。晴れた日には浮きあがり沈みゆく雲を眺め、雨が降ればそれをてのひらにすくう。それぞれの怒りを抑えながら、それぞれの喜びを求めながら、私達は私達を暮らしている。
「新しい宗教を創ろう」というシリーズを気ままに続けている。おもに新興宗教について扱っていて、まぁ少しくらいの知識はある。近所では顕正会の婦人部の方々が街頭の勧誘に熱心で、たまに声を掛けられることもある。じつのところ顕正会に関してはちょっとした資格も持っているのでおそらく彼らより私のほうが教学に詳しい。
顕正会員のもっとも悪いところは「自分達だけが正しいことを知っている」と思い込んでいることだ。知識だけなら宗教に詳しい人間は外部に幾らでもいる。顕彰会員より顕正会に詳しい者だっている。彼ら末端会員の「破折(はしゃく:論破の意味)」は子供の弁論大会の域を出ていない。穴だらけ、以前の問題。対話の基礎が成立していないので会話にならない。
あれこれ指摘すると彼らはだいたいこう言う。
「それでもお伝えしたいだけなんです」
だったら壁に向かって話すのと同じだし、相手に理解してもらう努力もせずに延々と時間を奪うのはつまり、まったくもって人間を壁として扱うことそのものである。相手の都合おかまいなしで壁として発言をぶつけ続けるというのはそれなりの侮辱行為である、ということすら思い至らない人の言葉なんて、誰かに伝わるはずがない。
宗教の勧誘において、あまりすべきではないことがある。
騙し討ち。
たとえば買い物に行こうとか、適当な理由をつけてじつは勧誘が目的である場合。
新興宗教の得意技でもあるけれど、思想信条に慣れていない人間はこれだけで恐怖を感じる。せめて1対1なら誠実だ。それなら単純に信仰の告白だからだ。けれど、遊びの約束で呼び出された場所に行くと知らない人間がもうひとりいたりする。2対1なら完全なる圧迫が成立する。脅迫的と言っても良い。
もしあなたが誰かに誘われて、そこに他人が紛れていた場合、もし納得のいかない何かに誘われたらもうその人物とは縁を切るべきだ。帰してくれないようなら通報しても構わない。しつこいようならストーカー防止法違反も適用される。
あたりまえだけれど、信仰は否定しない。教義も否定しない。そんな権利は誰にも無い。
ただ、もし他人にいきなり話しかけるなら、それなりの笑い話をひとつ、用意しておいて欲しい。たったひとつで良い。それだけで、世界は変わる。
こんな話をするつもりじゃなかったんだ。
そうだ、ある雨の日の話をしよう。
仕事終わり、マンションの駐車場に小さな女の子がいた。玄関ドア前で何やら立ち尽くしている。閉じた傘を持っている。なのになぜかショートカットの髪が濡れている。
「こんばんは」
声を掛けると、
「あのぉ、開けてもらえますか?」
どうやらオートロックのドアが開かなくて困っているらしい。
ドアを開けて、一緒にエレベーターに乗り込む。ボタンを押す時に尋ねてみたら、同じ8階の住人だった。
女の子は奥の部屋に走って行く。私は離れた手前の部屋の鍵を開けた。
肉体労働なので、これからの季節はとにかく汗をかく。さてシャワーでも浴びようというところで、玄関をノックする音。なぜノック? ドアスコープから確認すると、さっきの女の子がいた。背が低くてインターホンに届かないのだ。
「どうしたの?」
「あのねぇ お母さんがいないの」
とりあえず話を聞かないといけないので、廊下に出て奥の部屋のドア前まで一緒に移動する。
話してみると、どうやら日常的にあることらしく、どうやらお母さんはパートか何かの関係で遅くなってしまうこともあるようだ。そしてこどもには合い鍵もスマホも持たしていないらしい。まあ、オートロックのマンションだし廊下にいれば安全だ。
最初は泣いていた女の子だったけど、あれこれと会話していたら不安がおさまったみたいで、
「じゃあ、ひとりで待てる?」と聞いたら
「だいじょぶー」
と返してくれた。
偶然、鞄に飴を持っていたので、それを幾つか渡して部屋に戻った。
心配だったので、1時間後にまた廊下を確認した。もうあの子はいなかった。
数日後、ドアをノックする音。
開けてみると、あの女の子が「これ、お礼です」と言って、あめ玉をひとつ、てのひらに乗せていた。
とっても嬉しかった。
ウクライナが空爆されようと、ギャングが抗争を始めようと、私達は私達の生活を送るしかない。晴れた日には浮きあがり沈みゆく雲を眺め、雨が降ればそれをてのひらにすくう。
イデオロギーのどうのこうのなど、こども達にはなんの関係もないのだ。
あらゆる思想信条が私達に絡みつくこの社会において、けれどそれでもそれへ「関与しない」という生命の在り方もまた確保されるべきものなのだ。
生きて、呼吸をしている。土に遊び、空に駆ける。
イデオロギーとはそもそも、誰もがそのように日々を愉しむために、そのために進化してきた概念ではないのか?
少なくともそれを、目指していたんじゃないのか?
もし命に天秤があるのなら。
私はあの女の子のためになら、べつに死んでも良いと思う。
それが私のイデオロギーだ。
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