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大きな主語は省エネの産物

 今回の記事は、下記の記事を参考にして書かれています。

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 一般化とは「論理学で、さまざまな事物に共通する性質を抽象し、一つの概念にまとめること」である。
https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%80%E8%88%AC%E5%8C%96

 一般化という作業は、議論においては、いや日常生活においても必須のものである。日々、我々は「男性は~」「女性は~」「日本人は~」「欧米では~」など様々な一般化をほとんど無意識的に行っている。

 極めて複雑な構造をしていて、ほとんど無限にあるかのように思われるほど膨大な数の情報から成っているこの世界を生きる上では、一般化しないと我々の脳がパンクしてしまう。

 一般化とは、複雑で膨大な情報を取捨選択して錯綜する情報に一定の認識制限を設けることによって複雑な世界を簡素化して認識するための単純化である。

 つまり、我々は一般化することによって認識上の「省エネ」(ショートカット)をしながら何とかこの複雑怪奇な世界で生活しているのだ。

 我々人類の歴史はショートカットの歴史だと言っても過言ではない。

 手作業で書物を大量複製する手間をショートカットするために活版印刷を発明したり、ヨーロッパからアジアへの喜望峰航路をショートカットするためにスエズ運河を作ったり、手紙を書く手間・送る手間・運ぶ手間をショートカットするために電信を発明したり……。

 このような例は枚挙にいとまがない。我々の環境を見回してみてほしい。何らかの手間を省くために発明し発展してきたもの・システムばかりだ。

 我々人間は常に省エネ(ショートカット)を志向する。いや、志向するというより、無意識的に省エネ(ショートカット)しようとすると言った方が正確かもしれない。

 手間を省こうとすることは我々人間の「癖」であると言えよう。そんな癖の現れ方が「慣れること」であったり「一般化」であったりするのだ。

 一般化は、わざわざ、いちいち個人の状態・状況や個別の物事を鑑みながら世界を認識するという手間を省くために、個人の状態・状況や個別の物事など、個人の間や個別の物事の間で多種多様な差異を呈するものを「一緒くた」にすることである。

 「日本人は勤勉である」ということは巷でよく言われているが、実はこれは一般化の作業を経た文言である。

 「日本人は勤勉である」という文言を目にしたとき耳にしたとき、このように思わないだろうか?

 いや、勤勉ではない日本人もいるよ。

 その通りだ。実際は、当然ながら、勤勉ではない日本人も存在する。

 「勤勉ではない日本人も存在する」という主張は “事実であるという確率が高い” のである。 

 というように、一般化を経た文言の内容は高確率で事実ではないのだ。

 そもそも、複雑すぎる現実世界の事実は一概に言葉にすることができないし、その複雑性を縮減する=単純化することなしには脳がキャパシティ・オーバーになってしまうから、我々は一般化しているのだ。

 世界は我々人間のために存在しているのではない。世界は、我々の脳のキャパシティに都合の良いように存在しているのではない。我々の脳のキャパシティの都合上、複雑な世界の中の多種多様な個人や物事や事象を一般化しているだけなのだ。

 一般化することのメリットは世界を認識する上での省エネ(ショートカット)に寄与するということだ。一方、デメリットは、事実を述べているわけではない、それも高確率で事実を述べていないということだ。これらはあくまで一般化すること “自体” のメリット・デメリットだ。

 特に注意するべきは、一般化すること自体のデメリットよりも、一般化する際に発揮されてしまう我々の悪癖の方である。

 一般化を用いる際に発揮されてしまう我々人間の悪癖とは「事実を述べているわけではないという一般化のデメリットをいとも簡単に忘れて、一般化された文言を事実であると思い込んでしまう」ことである。

 とはいえ、日常生活においても議論においても一般化は我々人間にとって必要不可欠な作業であることには変わりない。

 我々は物理的に、全ての個人の状態・状況や全ての個別の物事について把握できない。我々は一般化という行為を飼い馴らさなければならない。

 日常生活では多少なりとも曖昧にルーズに簡単に一般化を用いても良いかもしれない(無論、そうではない場面・場合もあるだろう)が、議論においては一般化をしっかりと飼い慣らさなければならない。








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