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生活、折り合い、矛盾

考えていること、研究していることと、実生活は、しばしば矛盾する。

例えば、研究のキーワードに「ジェンダー」がある研究者が盗撮で逮捕される。
例えば、フェミニズムの文脈で分析を行う大学教員が、家ではパートナーに横暴な態度をする。
例えば、日本に在留する外国人への支援をと呼びかける団体の中の人が、留学生に差別発言をする。
例えば、帝国主義に異論を唱える教員がが学生にパワハラをする。

こういったことは、よく遭遇するし、よく耳にする。
慣れてしまうほどに、本当によくある話。

また、平等を求める社会運動の内部には、ジェンダー格差があるし、さらに小単位の家庭に踏み込めば、あらゆる問題が閉じ込められたままであることは想像に硬くない。

私のことを話そう。
書店の仕事の立場上、差別本を店頭に並べざるを得ない。
やりがい搾取の最たる現場に、何も訴えかけることなく居続けている。
家では、母が当たり前に行う家事やケアに分類される仕事に甘んじている。
また、父が家にいるときには、彼がお皿を洗いさえしないことに腹を立てながらも、きちんと話せない。

そう、主張していることと実生活にはズレがある。
誰もが少なからずそうだろう。
一部の人は、実生活における矛盾にさえ気づいていないかもしれない。だから訴えられるような結果となっているのだろう。

「それはそれ。」と割り切っていいはずがない。生活は、実践の場だ。
だから、できる限り考えや主張を、行動として実践すべきだと私は常々考えてきた。
しかし、上手くできるとは限らない。
私は反省してばかりいる。自分の至らなさが、いつもいつも苦しい。
あぁ、あのとき、なぜ。

それは研究の外で会う友人や知人との会話でもそうだ。
なぜ、あの話に同調してしまったのだろう。
なぜ、あの出来事を私は止めることができなかったのだろう。

せめて、こうして反省していたい。
気づかなくなったときが一番怖い。


すごい仕事をする人たちの、その仕事の下には何があるのだろう。それは誰かの、見えない「ケア」ではないか。
ものすごいスピードで仕事を仕上げる人たちは、家族や友人の語りに耳を傾けられているだろうか。
すべてを完璧に、何の犠牲もなく何かを成し遂げることは難しい。
けれど私は、広い広い世界について語ることよりも、手に届く範囲を守ることのほうが大切なのではないかと思う。

「すごい人」「優秀な人」「優れた能力」「立派な仕事」。
それらを、そのまま受け取るのではなく、何かもっとその背景をみたいと思ってしまうのはゲスだろうか。

みんなの生活をもっと聞きたい。
もっと生活、身体といった身近な事項について語り合いたい。

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