理想の生活

書けないことに向き合う他なし、と、気がついた。

次引っ越すならWi-Fiの通った電源のあるカフェのそばがいいなと思う。もしくは渋谷区の図書館のそば。最近よく見ているYouTuberが「部屋の審査が通らなかった〜!」と嘆いていた。この人でそうなんだからいわんや自分をば、と思い、ゾッとした。「一つの部屋に仕事する部屋とゴロゴロする部屋があるのは無理だよ〜!」というYouTuberに、なんとなく元気付けられた。やっぱ無理だよな。と言うことで、引っ越すお金もない・審査もきっと通らないわたしは、家の近くのカフェを探し始めたのだった。

そうしてカフェを探し出して、行ってみたのが先週で、思ったよりも客単価の高いそのカフェは、白人と、犬をカフェに連れて行きたいタイプの人間のたまり場で、なんだか疲れてしまった。

習慣化する他なし、と、片付いていない家に帰ってきて決意した。

突然だけれど、私は演劇の台本を書くのが好きだ。それは10年前のスパルタな指導によって私の体にフォーマットが染み込み、描きたい場面を会話の押収(ダイアローグ)だけで構成できるからだ。私は演劇を書いている時、世界で一番自由になれる。私の世界で。けれど世の中に演劇を好む人は少なく、演劇の台本をそれだけで読み、楽しんでくれる人はもっと少ない。そう言うことで小説を書こう!と意気込み、失敗するのを繰り返し続けているのがここ10ヶ月だ。

片付けをしながら、「ツイッターは書けるのに、長い文章となると途端にダメになるのはなんでなんだろう?」と考えて、気がついた。ツイッターは「ほおりっぱなし」ができるんだ。完成していなくてもいい。思考の途中で放り投げても、そう言うものとして受け入れられる。だって「つぶやき」だから。その手軽さが、私を書きたくさせるんだ。

だったら、小説を書くことだって、書き上がるまで、投げてもいいんじゃないかな。

ふとそう思った。とりあえず出来上がるまで。焦らず、すぐに結論に行かず、少しずつ投げていく。

演劇の台本を書いていると、創作というのは完成形をお金もらって見せるものという考えになっていく。でも、インターネットなんだもん。未完成が楽しいかもしれないし。なんだかネタの無料公開みたい、勿体無い、って感じるけど。でも書かれなければ一生私の頭の中にあるだけの文章が、誰かの目に止まるなら、そっちの方が文章も喜ぶだろう。

ということで、さっそく書きかけの言葉を放り投げた。

私は、私のいいところは学ぶことができるところだと思っている。そして学ぶ姿勢をとれるものだけが、自分に向いていることだと思っている。学ぶとは、「心に誠実を刻むこと」だ。できない自分と誠実に向き合うことだ。そして変化することだ。自分よりも愛する「文章を書くこと」に真摯に対応することだ。

これが習慣化できたなら、書けないことを許して、恥ずかしげもなくそれを晒せるようになれば、私はもっと文章のことを好きになる。私は、私の世界で、一番自由になれる。

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