見出し画像

日本の解雇規制は厳しくないという話

労働関係の話題になったとき、決まって日本は法律で厳しく解雇規制されているから解雇規制を緩和するべきだという人がいるが、正直これは事実誤認だ。ガチガチに法で解雇規制している事実などそもそも存在しない。

労働契約法16条には次のようにある

解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。

別に普通の事を言っているだけだろう。というかこの条文自体、合理的な理由があれば解雇しても良いと反対解釈できるわけだ。別に厳しくもなんともない。

ではなぜ日本の企業は解雇が難しいと言われるのか筆者なりに解釈してみよう。

結論から言えば、企業の人事権が強すぎるから。

当たり前だが、雇用契約というのは「こういう業務を遂行してくれたら報酬としていくら払います」という約束事だ。当たり前の話だ。だがこのことを失念している人は意外と多い。

日本の企業では入社するときも契約書はペラ紙1枚なんてことは珍しくない。まずここがおかしい。そして企業は労働者に対して転勤も配置転換もほとんど自由に命令できる。何かおかしくないか?私が何を言いたいのかお分かりだろうか。

そう、日本の企業では職務内容なんぞ、ほとんど決められてないに等しいのである。一応建前としては決まっているかもしれないが、それは企業の判断で自由に変更できる。「だから○○さんが使い物にならないからクビにしたいです!」となって、仮にそれを裁判所に訴えても、「じゃあ配置転換すればいいじゃん、クビにする必要ないじゃん。」と言われて終わってしまうのである。そもそも職務が曖昧なのだから社員が無能かどうかも判断できないというわけだ。解雇規制が厳しいという指摘は実は企業の強すぎる人事権のいわば反作用でしかない。

ここを誤認して解雇規制緩和などと言っている人を見ると正直、失笑を禁じ得ない。そんなことをしたら企業の人事権を一方的に強めてしまうだけで労働者にとっては利益はないに等しい。いや、そもそも「規制」など存在しないのだから、存在しない規制を緩和することはできない。

雇用を流動化したいのならやるべきことは簡単なのだ。業務や勤務地、待遇を明確化すればいいだけの話だ。契約書に業務内容や賞罰を細かく具体的に明記する。もちろん契約書に書いてない業務を新たにすることになったときは都度、契約書を更新する。労働者は契約書に明記されていること以外なにもする必要はない。簡単な話だ。

人事権は手放したくないけど、解雇は簡単にできるようになって欲しいなどという企業側の言い分は虫が良すぎるのではないか。日本の企業では解雇が難しいと経営者は文句を言うがその分人事権という利益も受け取っていることを忘れてはいけないのではないだろうか。

日本では企業も労働者も妙な労働観をもっている人がとかく多いと感じる。企業は労働者は会社に忠誠を尽くして滅私奉公するべきだと思っているし、労働者は労働者でそれを受け入れてしまっている。江戸時代以前の労働観を引きずっているのではないだろうか。

労働契約なんぞ「こういう業務をしたらいくら払う」という単なる約束事でしかない。忠誠もクソもない、単なるギブアンドテイクだ。企業も労働者も約束したことはするべきだし、そうでないならすべきではない。それだけの事だ。

それが分かってないから企業は業務内容も待遇も残業代も有耶無耶、曖昧模糊にしようとするし、労働者に無限の奉仕を求めることに疑問を持たない。本来の雇用契約の趣旨を考えればおかしなことのはずだが、疑問を持たない。労働者も考えが足りないからそれを受け入れてしまう。

国際化と言われて久しいが、こういう労働観はもうやめるべきだろう。技能実習生など見ていると本当にそう思う。狭い村社会ならいざ知らず、外国人が大勢生活しているような社会ではこういう労働観は通用しない。今こそ、日本的な曖昧な労働契約を改めるべき時なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?