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#6 アラサーチー牛が英語を勉強してUKに行く話

あるチー牛のなんでもない平凡な日常は、その一夜にして終わったという。

「きゃああああああ!」

深夜1時、耳をつんざくような叫び声が店内に響き渡った。叫んだ彼女は同窓会の参加者の一人で、彼女の視線の先、そこには、一人の男が憔悴した表情で、一人の女性に向けて鋭利なナイフを突きつけていた。

突如として起こった尋常じゃない事態に周囲は騒然とした。

「な、なにやってるんですか!」

「おい何だソレ、てめえ、里帆から離れろ!」

「ひゃー先輩、そりゃ予想してなかったっすわ。やべぇっすよそれ以上は。」

スーツの女性、茶髪のチャラ男、飄々とした細身の青年が、3者3様に声を上げた。

「ちちちち、近寄るなああ!ぼぼ、ぼ、僕は、こ、こうするしかながったんだ!」

一方、男は半狂乱状態でそう叫んで、空中でナイフを振り回した。

「何やってるんですか!それを今すぐ降ろしてください、窪塚さん!」

半狂乱の男は紛れもなく、窪塚その人であった。

「ちちちち、違うんだ!仕方がなかったんだぁああああ!」

彼は年下の先輩リサに名前を呼ばれ、一瞬意識が戻ると一体何が原因でこうなってしまったのかと考える。その間も、彼は頭の上でナイフを八の字に振り回していた。


時刻は事件が起こる7時間ほど前に遡る。

窪塚は会場の外で、年下の後輩を待っていた。時刻は夕暮れ時、夕焼けが河口の水面を照らし、その上を無数のアキアカネが飛んでいた。

ふと、僕はなぜ土曜日に出勤しなければならなかったのかを思う。学生に都合の良い時間を選ぶ必要があることはわかるが、なぜそれを易易と受け入れてしまったのか、そのことが引っかかっていたのである。振替休日を支給されるから良いという話ではない。土曜日が仕事に消えるのと、なんでもない平日が休みに代わるのでは圧倒的に前者のほうが精神的苦痛が大きい。そのことが今日よくわかった。6連勤というのは人の限界を超えた次元にある。

やむを得ず土曜出勤を要請するというのなら、別途保障をつけてほしい。あれ、そういえばうちの会社って休日手当でるんだっけ…

「お疲れ様です。」

「あ、はい。お疲れさまです、」

気がつくと年下の先輩が僕の目の前にいた。

「お待たせしてすみません、行きましょう。駅前にお店予約してあるらしいので。」

らしい?
まるで先輩でない誰かが予約したみたいな言い回しではないか。

「あ、はいっす。」

彼女は有無を言わせない感じでずんずん進んでいくので、僕はとっさに賛同してしまった。先輩がバス停を通り過ぎたところで僕はたまらなくなって声をかけた。

「先輩、バスに乗らないんですか?」

「土日だしバスは混んでますよ?多分道も。」

だから歩いていこうと先輩は言った。たしかに会場から駅まではせいぜい1kmなので歩いて行く人も多い。しかし歩くと言われて僕は尋常じゃないくらい落胆した。

「ちょっと足痛いんでバスで行ってもいいですか?」

僕はそう彼女に宣言した。もちろんずっと座っていたので足が痛いはずはない。ただ今の荒んだ精神状態で歩いていくというのはとんでもない。無理である。

「大丈夫ですか?わかりました。じゃあバスで行きましょう。」

年下の先輩はそう言って心配してくれ、僕に気を使ってバスで行こうと言ってくれた。

「え、先輩は歩いていっても大丈夫ですよ。」

「...」

僕は彼女が歩いて行きたそうだったので、心からそう提案したのだが、彼女は僕に振り返り、呆れたようにため息をついた。

「これから一緒の場所に行くのに、あえて別々に向かうってなんか変じゃないですか?」

「え、あ、はい、そうですね。」

"当然、変ですよね"とそう言っているように見えたので、慌てて先輩に同意し、バスに乗り込んだ。

やはり少し混雑していたので、奥の方の二人掛けの席に隣同士で座ることになった。まずは僕が窓際に座り、その後に先輩が隣に座った。ふわっ、とラベンダーを煮詰めたようないい香りがした。ちょっとツンと来る感じの香水で、いい意味で鼻孔と脳内を刺激する。絶対にキモがられるから言わないが、僕は年下の先輩の匂いがとても好きだった。

「窪塚さん、先に謝っておこうと思うんですけど、今日は実は高校の知り合いとの集まりなんです。」

バスが動いてからしばらくして、彼女は少し気まずそうにそう言った。

「え、どういうことですか?」

「さっき会場にいた人がたまたま高校のときの先輩だったんですけど、しつこくご飯に誘われちゃって...」

彼女の話はこうだ。会場で偶然再会した高校の頃の先輩のチャラ男こと柳から猛烈にアプローチを受け、本当は気が乗らなかったけど押し切られて、同窓会に参加することにしたのだそうだ。柳という男は昔から女性関係で色々問題を起こしているらしく、ちょっと怖いので僕に用心棒として参加してほしいとのことだった。

「それ、僕、関係なくないですか?」

「一応関係ありますよ。窪塚さんって私の高校の先輩ですし。」

なん..だと?
年下の先輩は僕の高校の後輩だったというのか。今まで高校の後輩に激詰めされてたなんて、知りたくなかった。

「え、まじですか、てかそれだったら、なおさら帰りたいんですけど..。」

「お願いします!もし柳さんたちが変な薬飲ませてくる人だったらちょっと怖いじゃないですか。」

「え、そんなやばいやつなら普通に断りませんか?」

「あーいや、流石にそこまではしないかな、すみません言い過ぎました。うーん、でも行かないわけにも行かなくってですねー。」

先輩は珍しく端切れの悪い様子でそう言った。

「あの、僕、高校にいい思い出ないんで、正直遠慮させていただきたいんですけど。」

僕は同情を誘うようにしおしおした調子でそう言った。

「あ、そうですよね..!ごめんなさい、私..。」

そう言って詫びる年下の先輩。同情、というより納得した感じだろうか、まるで僕の高校時代にいい思い出がないということになんの疑いもないみたいじゃないか。

「...いや、いいんです。いい思い出がない僕が悪いんです。」

「本当にすみません。私窪塚さんのこと全然考えてませんでした。...はぁ反省だなぁ。」

「そういえば、さっき行かないわけには行かないって言ってましたよね。あれなんでなのか聞いてもいいですか?」

「えっと、実は..」

年下の先輩は柳から、彼女の親友が離婚したと聞かされたそうだ。先輩にとっては寝耳に水な話だったが、それにもかかわらずその親友は、柳の主催の同窓会に参加するのだという。先輩の話は半分は愚痴で、親友に対して大層思うことがあるようだが、心配しているという気持ちのほうが強いようだった。

「小学生の時、不審者に声をかけられたことがあって、私、怖くて声も出せなかったんですけど、そのときに里帆が撃退してくれたんです。」

「どうやって?」

「里帆が背後からコンパスでぶすっと。」

先輩はそう言って、右手で刺すような動作をした。僕は思わず生唾を飲んだ。

「そのおかげで、すきを突いて二人で走って逃げられました。」

不審者なら自業自得とはいえ、とんだ災難にあったものである。

「え、あ、思い切りがいいんですね。」

「普段はすごくおとなしい子なんだけど、すごく正義感が強い子なんです。私がいじめられてたときも里帆だけが一緒に遊んでくれたし、とにかく今の私があるのは、全部里帆のおかげなんですよ。だからもし里帆がつらい思いをしているんだとしたら助けてあげたいんです。」

「そうだったんですね...。」

そう語った先輩にジーンと心を打たれ、僕の瞳にキラリときれいな雫が光った。

「..え、窪塚さん泣いてるんですか?」

「い、いや、そんなこと..ないよ。」

なんというか僕はこういう友情ものに弱いのだ。昔から人付き合いが苦手で、気づけばこんな年齢まで心を許せる友人ができないまま過ごしてしまったから、そういうお互い思いやれる関係に憧れていたのかもしれない。

「..ハンカチどうぞ。」

「.ありがとうございます..」

彼女は少し困ったように僕にハンカチを差し出してくれた。今日の先輩はなぜか僕に優しかった。こうなったら僕も彼女のために人肌脱ぐのが人情というものではないだろうか、そんな気になるのだから人間、不思議なものである。

「...先輩、僕やっぱり僕行きます。」

「え、いいですよ!無理しないでください。」

実は、さっきまで彼女が僕を精神的に潰そうとして同窓会に呼んだのではないかと思っていた。先輩とは何かと折り合いがつかないことが多かったので、もしかしたらここいらで締めに来たのではないかとビクついていたのである。しかしながらそんなのは全くの杞憂であり、先輩は心から親友を心配していたのである。そんな先輩の真摯なところに僕は完全に心を打たれてしまった。

「僕、先輩には心置きなく里帆さんとの時間を過ごしてほしいんです!」

「その気持ちは嬉しいですけど、さっきまですごく嫌がってましたよね。」

「すみません、あのときは気が進まなかったんですけど、今は違います。」

さっきのは冗談だ。高校の頃は可もなく不可もないので、悪い思い出というのも別に多くない。

「そ、そうですか。」

「それに、やっぱり先輩が心配なんです。」

「え。」

年下の先輩はなんかキョトンとしている。あれ、オヤジギャグ言ったみたいになってる?それとも単純にキモかったか。

「先輩のこと怖い先輩だと思っていたんですけど、本当は友達思いな優しい人なんだってわかりました。だから協力したいんです!」

「ありがとう、前者は別に間違いじゃないと思いますよ。あの、本当に無理してません?」

先輩は少し顔を赤くして、もう一度確認を入れてきた。

「大丈夫です!」

僕はもう迷いはなかった。しかしこの決断があんな結果を招くとは、このときは思いもしなかったのである。

夕日はすでにビルの影に隠れ、僕らのバスに深い影を落としていた。


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