T先生への手紙 (5度 ウクライナ問題から考える)

ウクライナ問題について、知人のT先生に宛てた「手紙」です。これまでの自分の思索・考察の集大成でもあるので、記録のためここに掲載します。

「先生はウクライナのNATO入りを推奨されるのですね。それなら自民党の改憲案に賛同して、日米安保を双務条約に変えることに同調しなければ、論理的に自己矛盾していますよ(アメリカに守ってもらえなければ自国は守れないと確信するということでは、おなじでしょう)。昨日一昨日の、プーチンの態度で、彼を擁護する気はすっかり失せましたが、それでもマクロンが推奨しプーチンも一度は「それでよかろう」と言った、ウクライナのフィンランド化(中立化)を、ゼレンスキはウクライナ自身の選択として受け入れるべきでした(その方が厄介者扱いされながらNATOに入るより[たぶんロシアとの面倒を恐れる既加盟国からは受け入れてもらえない。アメリカは「入れない」と約束することを拒否しただけです])。弱国は強制されたことを受け入れなければならないのかと、K先生に叱られましたが、その時日露戦争前夜伊藤博文が構想した、日露協商案のことを思い起こしました。たぶんこれもロシアが日本をだます手だったのかもしれませんが、それでも「平和主義者」伊藤は最後まで、日露協商が実現することを模索していたのです。たぶんそれが実現すれば(それはロシアにとりあえず屈従するということに他なりませんでしたが)、その後の日本の歴史の成り行きは、明治初頭繰り広げられた大国主義か小国主義かという論争の、「小国主義」を選択せざるをえに買ったでしょう。私は「小国主義」を選択して、強露のもたらす普段の緊張のもと極東のスウェーデンを目指す、もう一つの歴史の経路があり得たでしょうし、既に自由民権運動から帝国議会へと展開していた日本人の政治意識はもっと成熟したものとなったと夢想します。まあ、その場合李朝自身がよほどしっかりしないと、朝鮮は全部ロシアにとられてしまうということになりますが、案外日本の立場としては「緩衝国」朝鮮の復権を目指して、光復運動をロシアにばれないように支援するとか、全く異なる日韓関係もあったかもしれません。宮崎滔天や北一輝、頭山満たちの「大アジア主義」のエネルギーも、きっともっと別の形で発露されたと思います。日英同盟から日露戦争の勝利、ロシアの利権を引き継ぐ形での満州経営、中国本土侵略という流れを批判した時、ある人からじゃあ明治末年の日本に他にどういう選択肢があったんだと詰問され、答えに詰まったことがあります。歴史の禍福はあざなえる縄の如し、不本意な「日露協商」の先にあり得た、より健全で真の意味での自活力に満ちた日本を考えると、マクロンの誘いに乗ってウクライナも第二のフィンランド、第二のスウェーデンを目指す道があったと思うのです。ただそういう「ありうべき」もう一つの世界の夢も、昨日から今日の時勢の劇変で根本から変わってしまいました。ロシアがルビコンを渡ってしまった以上(ロシアが最初からわたるつもりだったのか、西側が渡らせてしまったのか、もしこの事件がこの先何十年後、歴史研究の対象となるとすればその解釈の論争になるでしょうが、)、もう地獄の釜が開いてしまったのかもしれません。シリアやリビアで何が起こったのかを見ていると、理想主義だけでほしいものをいっぺんに手に入れようという発想が、紛争地域の問題に取り組むときいかに不適切なものかと、私は改めて思います。みんな欲張りなんですよ。ほしいものを全部すぐさま手に入れないと我慢できない。こんなことを書くと、「ロシア討つべし」で盛り上がっている世の中で、どんな目にあわされるかわかりませんが。「大国を治むるに小鮮を烹るが如し」という『老子』の言葉の真実を、かみしめています。」

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