自分の面構えには責任を持ちたいお年頃

だらしない顔。他人はもちろん自分がそうであっても嫌だ。

そう感じるということは少なからず「だらしない顔」に対して人間は不快感をおぼえるのだと考えても良さそうだ。
もちろん、「だらしない顔の人が好き」という性癖(ただしい日本語としての「性癖」)の方も中にはいらっしゃるので一概に言えたことではないのかも知れないけどね。

自分がだらしない顔になってきたなと思った時点で、表情筋のトレーニングやスキンケアをするのはセルフプロデュース的にも身だしなみ的にも当たり前のことだと思っているので、すかさず実践している。
生まれ持ったものは外科手術でもしない限り変えることは難しいけれど、後天的な要因(不節制・荒んだ生活・自省しない・表情のコントロールをしない)でなってしまった「だらしない顔」は改善できるし、しないのはグータラなだけだと思う。うん、そういう評価だ。

やるかやらないかという部分で他人の評価は決まるし、やらない者はやがてスポイルされるだけなので(万事において努力や詰めが甘いという判断の下)、そういう人たちには好きに生きていただいて、こちらは我が身を磨くことで自分の商品価値を上げていく所存。

アメリカでは太った人は「自己管理できない」というレッテルを貼られ、そうした扱いを受けるのは有名な話。
ならば、先天的要素での見た目や個性での区別はポリコレ問題につながるけれど、後天的要素の表情の悪さや品の無さなどは、自己努力の有無の表れなんだから、ここでの区別はあってもいいと思っている。
努力の賜物は正当に評価されて然るべきでしょう。

まあ、これを書くとオーバーサイズモデルなどと言われる方々に対する批判じゃないのか? 疾病で望まない状態に陥った人の気持ちも考えろ!などという意見も聞こえてきそうだけれど、そうしたケースも含めて書いているわけではないし、揶揄する意図も全くないので悪しからず。

とにかく、オノマトペで表現するならば「でへー」という締まりのない口元と、「どよーん」としたまるで輝きのない濁った沼のような目、どこか「ぬちゃり」した表情を直そうとしない無努力な人間については、少なくともボクは好まないので接触を避けている。なんてそんな話。朱に交わればなんとやらだ。

客観的に自分をみることができるならば、どうしてもアイコンに顔写真を使いたい時は、どんなのにすれば良いかわかりそうなものなのになー。なんて流れ行くタイムラインを見ながら考えていたらこんな時間。

少しまた荒んできたみたいなので、反省のために鏡を確認してから寝るとしよう。


GIO.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?