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銀座花伝MAGAZINE vol.5

#人間性の進化    芸術家との100年の約束  老舗画材店「月光荘」

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未来を少しでもよくするために取り組まれている医療やIT科学の著しい進歩には目を見張ります。そんな中で私たち自身の人間性は進化できているのでしょうか。ようやくの自粛解除から、またもや不安な日々が訪れようとしています。今は「新しい進歩」を創る時代。どんなに苦しい世情の中でも未来を見据えて「美意識」を伝え続ける老舗の姿に私たちは勇気をもらいます。400年という時間のふるいをくぐり抜け「日々の暮らしを豊かにする美意識」にあふれる街・銀座。あなたの幸福感を満たす新たな「美のかけら」を発見していきます。


 銀座に「人間性の進化」を自ら起こし、日本の美意識を高める仕事を成し遂げた老舗画材店があります。北アルプスの麓の豊かな自然の中で育った少年は山にかかる大きな虹を見て、「俺、あの虹の橋を渡ってみたいんだ!」と本気で叫びました。創業100年を超える伝説の画材店「月光荘」の創業者・橋本兵蔵はそんなありったけピュアな人物でした。

キャンパス絵具

1 芸術家と交わした100年の約束 月光荘画材店

銀座8丁目、花椿通りにある「月光荘」は、れんが造りの出立ちで凛とそこに佇んでいる。与謝野晶子直筆の「月光荘」看板には、トレードマークのホルン。ドアを開けるとそこには、手作りオリジナル文具の世界が広がる。

月光荘店内

20世紀初め、生活の苦しい日本の芸術家たちの夢を助けようと、その思いをカタチに実現したのが「純国産絵の具」だった。兵蔵が人生をかけて創り上げた絵の具には100年愛され続けた物語がある。

国産絵具

文化サロンが人を育てる

自然豊かな環境のもとで多感な少年時代を過ごした兵藏は、やがて東京に憧れを抱くようになり、大正元年(1912年)、18歳の時に富山から上京する。郵便配達夫などの仕事を転々としながら、YMCAの主事であったフィッシャー氏の九段の家に書生として住み込み働きを始める。その時の向かいの家が、歌人・与謝野鉄幹、晶子夫妻の家だった。偶然とはいえ、あこがれだった与謝野晶子との出逢いによって兵蔵の人生がここから大きく拓けていく。

与謝野晶子の文化サロン

明治33年(1900年)から明治41年(1908年)まで、与謝野夫妻は雑誌「明星」を主宰していた。ヨーロッパの詩の影響を受けた短歌革新運動の波が起きていた時期、与謝野晶子が出した、第一歌集「みだれ髪」は、当時の多くの青年たちの心を捉えていた。自宅には北原白秋、石川啄木、高村光太郎などの詩人や、藤島武二、梅原龍三郎、有島生馬、岡田三郎助などの画家たち、また建築家や歌舞伎役者など、ジャンルを超えた人々が集まっていた。彼らの情熱あふれる芸術的な世界に触れる中で兵蔵は、貧しい芸術家たちが使える国産絵具がないことで困っていることに気づき「国産絵の具」創りで芸術家の役に立つ道を見つけていく。

兵蔵の「人間性を進化」させた、与謝野晶子の助言

まずは外国からの絵具輸入店を開業しようとした時、起業後の金銭面を心配した与謝野晶子は、自分の名刺に「私の友人」と書き記したものを兵藏に持たせて、新宿中村屋のご主人である相馬愛蔵、富山出身で富士銀行創始者の安田善次郎、生活協同組合創始者の賀川豊彦らに引き合わせ、経営のイロハを学ばせる。芸術と経営に基づいた数々の助言がその後の兵蔵の人間性の芯となっていく。

「売れるものを考えるのではなくて、人が喜ぶものを売ること。」
                           

フランスのヴェルレーヌの詩「月光と人」からの引用によって名付けられた店の名前「月光荘」。命名は与謝野鉄幹だった。トレードマークである「友を呼ぶホルン」も、与謝野夫妻を中心とした当時の文化人グループ(小山内薫、芥川龍之介、島崎藤村、有島武郎、初代猿之助、森律子、藤島武二、岡田三郎助など30数名)により考案され、「音を奏でて多くの人が集う場所」の夢が託されたという。開店を祝って、与謝野晶子は歌を一首、兵蔵に贈る。

    「大空の 月の中より君来しや
              ひるも光りぬ 夜も光りぬ」

月イメージ

芸術家たちが困っていたこと

月光荘3代目の日比康造さんは、祖父から伝えられた話しを語ってくれる。

「(創業当時は)輸入した粉が劣悪であれば、劣悪な絵の具しかできなかった。それが日本の画家たちが苦しんでいたところです。絵の具は、絵の具の粉と、それをキャンバスや紙につけるための、バインダーという糊状のものと練り合わせることで、水彩絵の具になったり、油絵の具になったり、アクリル絵の具になったりするんです。そこで、月光荘画材店は日本で最初に、粉から絵の具を作っていったんです。」

一から鉱物を焼いたり、他の薬品を練り合わせたりしながら、いろんな粉を開発していって、それを見よう見まねで手ですりつぶしてみたり、ローラーにかけてみたりというのを経て、今の絵の具作りの礎を築いていったという。

苦難の開発23年、「国産絵の具」の誕生

芸術家たちが良質でもとめやすい「国産絵の具」を切望する中、兵蔵が最初に着手したのが、「コバルトブルー」だった。絵の具の顔料は、原料となる鉱物を高温で焼いて、そこから抽出した成分をもとに作る。専門家でない兵蔵は、ありとあらゆる専門書を片っ端から読み、どのようにしたら原料の鉱物から青色コバルトの成分を取り出すことができるのか、手探り状態の中で実験を繰り返した。川底の石をさらって、砕いては焼き、また砕いての繰り返し。こうして日本ではじめて、顔料から作られた純国産の油絵の具が完成したのは、月光荘画材店を創業してから23年後のことだった。

戦後も絵の具の開発研究は続けられ、1948年:S.O.S.(ペースト状速乾剤)を発明、1952年:チタンホワイトの製造に成功、1960年: 「月光荘ピンク」と呼ばれるCobalt Violet Gekkoso Pink(コバルト・バイオレット・ピンク)を発明に至る。
※この月光荘ピンクは、1971年の世界絵の具コンクールで1位を受賞、ル・モンド紙に「フランス以外の国で生まれた奇跡」と評価を得た。

絵具職人

手作りで調合する「月光荘」絵の具

月光荘の純国産絵の具は、手作り絵の具マイスターの手によって日々調合、手作りされている。マイスターの鈴木竜矢さんが、手塩にかけての練り作業で完成させていく。もともと月光荘の社員として働いていたが、3年ほど前から職人として絵の具作りに携わっている。約40年間にわたって絵の具をつくり続けてきた職人が高齢になってきたため、後継者として職人に転向したそうだ。現在は、師匠と弟子として、2人で絵の具を作っているという。順調にいけば8時間ほどで絵の具は仕上がるそうだが、それ以上かかるときもあるそうで、「重たいし、夏はちょっと辛いですね」と鈴木さんは語る。

「何度もこの作業を繰り返すことで、やがてしっとりした輝きのある絵の具になるのです。絵の具作りは、作品への責任、鑑賞者への責任を負っています。それが芸術家と月光荘が交わした100年の約束です。」

絵具を作る様子がTwitterで配信されて以来、「初めて絵の具作りを見た!」という感激の声が多く寄せられている。

日本経済新聞(2020年7月6日版)でも、月光荘の絵の具作りが取り上げられ改めて話題になっている。

合言葉は「色感は人生の宝物」

祖父兵蔵は、「芸術の素晴らしい世界」を教えてくれた文化人たちへの恩返しとして、月光荘を創業した、と日比康造店主は話す。

「実は、これまで月光荘が重ねてきたのは、物語ではなくて「人語り」だと思っています。100年の歴史の上に、今の私たちの想像力が加わり、それを職人が製品にして、その商品の素晴らしさを店頭のスタッフがコンシェルジュとしてお客様に伝えるようにしています。毎朝の朝礼には必ずその確認をしています。私たち月光荘だからこそ提供できる楽しさを伝えるべく、日々チームワークで乗り切っているところです。これからも新しい時代の人語りを紡いでいきたいと思っていますので、色感を育む『絵を楽しむ生活』の入り口にして頂けましたら嬉しいです」

これからは自宅での暮らしに潤いと、豊かさがとても大切。改めて、絵を描く楽しさを味わう時間をあなたも作ってみませんか。 

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2   「あきらめない」ほっこり100年 銀座よしやの奮闘 

銀座木挽町といえば、歌舞伎座の裏に広がる新銀座エリア。昭和通りを超えたら銀座ではない、などと言われたのも今は昔。現在は、歌舞伎座裏通りを中心に、マガジンハウス社をはじめ、ジョン・レノンとオノ・ヨーコがお忍びで通ったカフェ「樹の花」、いつも熱々が食べられるコロッケの老舗・創業85年「チョウシヤ」、ミシュラン割烹「うち山」、ヤマト運輸が経営する「スワンカフェ」、最近では小ぶりでお洒落なワインバー、イタリアレストラン風バールなどがひしめき合う魅力的な街並みが出来上がっている。

そんな裏町にある老舗「よしや」は、どら焼きの専門店だ。店を訪ねると2代目中村良章店主が、実にリズミカルな手捌きでどら焼きの皮を焼く姿を見ることができる。餡はさっぱりした風味のこし餡で、薄いどら焼きの軽さと実によく合う。その味わいと共にこの店の人気を押し上げたのはオリジナルの「焼印」だ。店や会社などのブランド・ロゴ・デザインを持ち込めば、「鉄焼ごて」を制作し、どら焼きの皮に焼印してくれるというサービス。個人でも記念日の引き出物、歌舞伎役者などへの差入れ、入学式、結婚式などにとよしや謹製「特別焼印付き」のどら焼きは今や名物となっている。

どら焼き

銀座界隈の高級ブランドから国内外の大企業、そして個人まで、数多くの注文がひっきりなしで入る「よしや」。店頭に並ぶ焼き鏝のブランド名を眺めるだけでもそのラインナップは圧巻だ。

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これまで、東日本大震災の際には、イベントの中止などで3月には1,000個のキャンセルが出たこともあった。しかし当時は、4月を迎えると徐々に景気が盛り返され、イベントも再興し次第に落ちつきが見えてきたという。しかし今回のコロナは事情が違う。先が見通せない、という点での厳しさは比較にならない。

「色々な会社の焼印を作っているので分かるのですが、どこも経営が厳しく、お客様の中で倒産や閉店が相次いでいる状況です。歌舞伎座など観劇も自粛なので、実際のところ乗り切る方法を今手探りしているところです」

そんな中村店主にとって嬉しいニュースは、甥の斉藤大地さんが、3代目を継いでくれたことだ。そして、新しい視点で、銀座老舗店主たちと共に銀座を元気にする「物々交換」プロジェクトを立ちあげたこと。まだまだ諦めてはいられない、商いの知恵を絞る戦いが今も続いている。

詳しい内容は、銀座情報で。

雲風景


3    能のこころ  謡(うたい) 十五徳

銀座に150年ぶりに観世能楽堂が還ってきてから、早朝に能を体験する観世会のプログラムが2017年から始まりました。銀座に通勤圏のある働く人たち、経営者、日本文化LOVERSなど、古典芸能に関心の高い初めて能に触れるビギナー達が集う場。まだ街が目覚めぬ時間に、神聖な能楽堂の舞台に正座し、背筋を伸ばし、空にも届くような大きな声で、「謡」を体験した瑞々しい時間。筆者自身の人生観までも変えたあの実感は「人間性」を進化させる種として、今も芽を出し成長し続けています。

富士山

江戸時代には、今とは違って普通の能狂言の上演は庶民には見ることができないものでした。それは基本的には、能は武士階級が嗜むもので庶民には手の届かないものだったからです。とはいえ「謡(うたい)」だけは、江戸の寺子屋で基本科目になっていたほどで、庶民にとっては唯一暮らしに根ざした文化だったようです。

「謡」の基本は七五調。日本語をもっとも美しく響かせるリズムです。12音を一つの文として、八拍子に当て嵌めるルールはありながら、一拍ごとに伸び縮みするので、普通に聞くと8拍子には聞こえないという自由さが特徴です。聞きようによっては、ジャズのセッションのように感じる方がいるのも、そんなことが理由かもしれません。

能の中でももっとも人気のある「羽衣」の最後のキリ(最後の詞章)を初めて謡った時、最初は何がなんだかわからないまま、能楽師の後に続いて稽古するのですが、繰り返しなぞる内に詞章を暗唱できるようになります。その段階になると能舞台で謡う時間が用意されます。詞章を腹の底から、思いっきり座席空間に向けて放つその瞬間に、能楽堂の中で実に不思議なことが起こるのです。

羽衣伝説を舞台にした能「羽衣」では、最後に天女が風光明媚な三保の松原を見下ろしながら天上に登っていくラストシーンがあります。

浦風にたなびきなたびく。三保の松原、浮島が雲の。          愛鷹山(あしたか山)や富士の高嶺。

謡の歌詞が口から飛び出して、能楽堂に響き渡る時、詞章の世界・日本の情景が目の前にくっきりと浮かび上がるのです。「裾ひく富士山が見える、本当に美しいなー」と。これは、謡を体験をされた方ならどなたでも経験できる素晴らしい時間です。江戸の庶民は、この楽しさを早くから知っていて、旅などできない身分ながら、謡で旅していたのでしょう。大いに流行していた理由が分かります。

波

 「謡をやるとこんなにいいことがある」 謡十五徳

大流行の江戸時代には、謡をやるとどのようないいことがあるのか、それを「効能としてまとめた」ものがあります。十五徳の内いくつかをご紹介しましょう。例えば、

『不行而知名所』 ー行かずして名所を知りー

風光明媚なその場に行かなくても、訪ねたような気持ちになれる、というのです。

また、世渡り術に関した効能も示されています。

『不望而交高位』 ー望まずして高位に交じるー

自分から望んでいるわけでも無いが、普段滅多にお目にかかる事のないような高位の、例えば文化人や芸術家などと親しくなる機会に恵まれるという意味です。確かに、能を好まれる方々には品格高い方々が多く、ご一緒するだけで人間性の学びが身につくような気がします。

ところで、その中から私たちにとって身近な役に立つ一徳をご紹介します。

『無友而慰閉居』ー友なくして閑居を慰むー

現代はSNS時代。人からの承認を得るためにSNSに過剰に反応し、疲れはててしまうことありませんか。あるいは、心の寂しさを紛らわすためや空いた時間を埋めるために、本当は会いたくない人とZOOMで会う。そんなあるある経験を多くの方はお持ちではないでしょうか。今もっとも大切なことは「孤独と向き合う」時間を自分に課す事。「孤独である勇気」を大切にしながら、梅雨の夜、静かに謡を味わうと「心の飛翔ができますよ」とその効能を説いています。

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4   ESSAY おうちで和歌散歩 人の心の種

 もともと詩歌は、地球上のあらゆる民族にとって、その民族の言語誕生と共にありました。日本の大和言葉をみても人の感情(喜怒哀楽)や祈りの最も大切な表現手段だと云う事が分ります。更にその詩歌を声に出してみると、心の中に不思議な高揚感が生まれる事に気づきます。詩人の故大岡信さんによれば、「“目”が“声”を呼び起こす時はじめて、詩歌(作品)は真に具体的に読者一人一人のものになる」からだと述べています   
       

散歩

自粛生活の中で、人間性のふくらみを幾らかでも進化できたかなと思えるのは、明け方に森に出かけて「和歌一首」を口に出して唱えてみる習慣が身についた事でしょうか。最近は、雨が多いことに加えて、草むらに藪蚊が多くなりつい怯みたくなる日もありますが、和歌を暮らしの中に取り入れて4ヶ月。「文化の種」に触れる生活が楽しみになってきました。


「人の心を種として」生まれた、和歌

紀貫之が和歌の魅力をこんな風に表現しています。

和歌は、人の心を種として、それが育って様々な言葉になったものだ。この世に生きる人々はする事が多くあるので,思う事を見たものや効いたものに託して表現するのだ。

藤原俊成は、もっと端的な表現でこう述べます。

もし歌というものがなかったとすれば、花の色や香り等を知る人もなく、いったい何を美の本性とする事が出来るだろうか。

ポピー


本日の一日一歌(詩)。

ながむれば心もつきて星あひの  空にみちぬる我(わが)おもひかな

      ー建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)ー

「星あひ」は七夕夜の織姫と彦星の逢瀬のこと。私の心は、空虚になり果て、七夕の夜の星たちのただ一度の逢瀬さえ、わが恋の儚さに引き比べては羨ましい、と歌います。

作者の建礼門院右京大夫は平資盛の愛人で、歌と往時の寂しい日々の回想とを組み合わせた「建礼門院右京大夫集」を残しています。今夜は七夕。歳時記にふさわしい和歌に思いを馳せるのもまた「人の心の種」に触れる素敵な時間です。


七夕


5 銀座情報   モノコト交換プロジェクト

歌舞伎座裏の木挽町で創業100年の老舗和菓子店銀座「よしや」が、売り上げの下がっている銀座の老舗店に声をかけ「物々交換」の助け合いプロジェクトを始めました。

「新型コロナウイルスにより、先の見えない不安を皆さん抱いていると思います。その不安がどんどん大きくなり、店舗や会社の経営が圧迫されたり、また閉店や倒産を余儀なくされているお店が多数あります。沢山の会社様の焼印をお預かりしている当店は、日々そのような現状を生でお聞き、非常に胸を痛めております。何かお役に立てる事はないか、何もしないよりは一歩前に進みたいと考え、次のようなチャレンジをしていきます」

と老舗3代目斉藤大地さんが、リレー式「物々交換プロジェクト」を立ち上げました。

銀座の老舗菓子店を中心に、菊廼舎、清月堂、銀座千疋屋、三笠会館、ユニクロ、和小物・与板屋さん・・・助け合いの輪が広がっています!

詳しくは、よしやTwitterへ   https://twitter.com/kobikicho_y


東京どら焼き


6  編集後記(editor profile)

ウイズ・コロナを生き抜くヒントは、「人間性の進化」だと言われます。

今号で取り上げた「月光荘」創業者・兵蔵さんは「型破り」でいつも常識を打破する人物だったそうです。「芸術家の役に立ちたい」「芸術への歓びを教えてくれた芸術家たちに恩返しをしたい」そんな純粋な思いで「純国産絵の具」まで誕生させてしまいます。まさに夢だった「虹を渡った」のです。

思えば今社会を席巻していることは、誰も予想しなかったことばかり。昨日と同じことをする行動様式では「生き残れない」ことがはっきりしてきました。

未来を変えるように行動する

それを自問する1日1日が続きます。

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

           責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子

〈editorprofile〉                           岩田理栄子:【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         銀座お散歩マイスター/マーケターコーチ                                                           東京銀座TRA3株式会社代表取締役      著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊

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