見出し画像

瀬戸内寂聴さんが最後に伝えたかった、「私こそは」と思って生きなさい

※(画像はmi-mollet、
記事は、ビジネス+ITより引用)

瀬戸内寂聴さんが2021年11月9日に
99歳でこの世を去りました。

故人をしのび、その3か月前に行わ
れた66歳年下の秘書、瀬尾まなほ
さんとの最後の対談を掲載します。

8年間にわたって寄り添ってきた、
まなほさんが寂聴さんに初めて怒
られたのは、「どうせ私なんか」
と言ったときでした。

滅多に怒らない寂聴さんが「そんな
ことを言う人はここにはいらない」
と怒鳴った理由には、寂聴さんから
「今を生きる人」への大切なメッセ
ージがあったのです。


「私なんか」ではなく「私こそは」と思って生きなさい

瀬尾まなほさん(以下、まなほさん):
これまで先生にはいろいろなことを言われましたが、初めて怒られたのは、何かのときに私が「どうせ私なんか……」と言ったときです。あのとき先生は、ものすごく怒りましたね。

瀬戸内寂聴さん(以下、寂聴さん):
あなたは以前、何か話しているとすぐに「私なんか」と言っていました。何かというと、「私なんか」、「私なんか」……。

まなほさん:
「私なんかなんて言葉は使うな。そんなことを言う人はここにはいらない」と、ひどく怒鳴られました。先生はめったに怒らないのに、あのときはどうしてあんなに怒ったのですか?

寂聴さん:
まず、その言葉は、あなたを産み、育ててくれた親に対して、とても失礼なことだからです。あなたは普通のレベルよりはちょっと上の美人だし、才能もあると思います。それなのに「どうせ私なんか」と言うのは、逆に思い上がっているのだと思います。あなたを産み、育ててくれた親はもちろん、そうした器量や才能を与えてくれた大いなるものに感謝しなくてはいけません。

 人間はどんな人であれ、生まれて来る値打ちがあるから生まれてきます。自分という人間は、この世に一人しかいません。そのたった一人の自分を認めてあげないで、「どうせ私なんか」などと自分を否定したり、卑下したりするのは、自分をバカにしていることだし、自分に対して失礼なことです。

まなほさん:
それは、自分を粗末にしているということですか?

寂聴さん:
そうです。粗末にする前に、自分をバカにしています。親は、それぞれにすばらしいものを与えてくれています。それに気がつかないのは、その人がバカなのか、努力をしていないからです。「私なんか」とは、誰であれ言ってはいけません。せっかく生まれてきたのですから、その命を大切にすることです。だから「私なんか」ではなく、「私こそは」と思って生きていくべきです。

まなほさん:
「私なんか」という言葉の根底にあるのは、つい自分と他人とを比べてしまうことです。それで、「この人はできるのに、どうして私にはできないのだろう」とか、「この人はモテるのに、私はまったくモテない」とか、そう思って自分に自信が持てなくなります。そんなときに、「どうせ私なんか」と思ったり、「私は生きていても意味がない」と思ってしまったりします。

寂聴さん:
ここに相談に来る人の中にも、そういう人がたくさんいますが、それは一番つまらないことです。まず、親が生んでくれただけでも「有り難い」こと、もったいないことだと感謝しなくてはいけません。なぜなら、もし親があなたを産もうと思っても、何かの力が働いて産まれてこなかったことも考えられます。ですから、あなたがここにこうして存在しているということだけでも、本当は簡単なことではないのです。


「当たり前」なことなど、この世に一つもない

まなほさん:
「有り難い」というのは、つまり「当たり前ではない」ということですか?

寂聴さん:
その通りです。ほとんどの人は、自分が生まれて、ここにいることが当たり前だと思っています。見たり、聞いたり、食べたり、歩いたりすることが当たり前だと思っています。でも、それは当たり前のことではありません。それだけでも、非常に恵まれたことです。ですから、まずはそのことに感謝をしなくてはいけません。この世に当たり前のことなど一つもなく、すべては有り難いことなのです。信仰などというものも、そうした有り難いことに対する感謝の気持ちから生まれてきたのだと思います。

まなほさん:
今、こうして生活していることが当たり前、家族がいることが当たり前、そう思うのではなく、すべては有り難いことなのだから感謝をして生きなさいということですね。

寂聴さん:
その通りですが、これが簡単にできそうでいて、なかなか難しいことです。それができたら、もう神様か仏様のような存在でしょう。

まなほさん:
けれども、今の自分の状況に不満があったり、何かイヤだと思うことがあったりしても、よくよく考えれば帰る家があって、迎えてくれる家族がいて、食べられるものがあって、それなりに健康でと、幸せなことがいっぱいあります。ですから、時々はそういうことを思い返して、感謝することができればすてきだと思います。

寂聴さん:
それはそうです。だから仏教にしろ、キリスト教にしろ、神様や仏様を拝むときには、そのことに感謝をするのです。

まなほさん:
でも先生は、毎日〆切に追われ執筆ばかりして、お経もあげず、決して熱心なお坊さんだとは言えないと思うのですが、こういうときにはいかにもまじめな尼さんのようなことを言いますね。私、それを聞いていて、時々笑いそうになることがあります。

寂聴さん:
こう見えても、私はちゃんと修行をしましたよ。あなたはしていないじゃありませんか。

まなほさん:
もちろん、私はしていません。でも、たしかに拝む対象があるだけで、ものごとに感謝する気持ちにもなれると思います。

寂聴さん:
それが信仰心の源になります。「宗教などなくてもいい」と言う人がいますが、宗教があるおかげで人やものごとに感謝する気持ちも生まれるし、苦しみから立ち直れる人もいます。信仰心を持つかどうかは人それぞれでしょうが、私はあったほうがいいと思っています。

まなほさん:
信仰心、ですか……。若い人でしっかりとした信仰心を持っている人は少ないと思いますが、でも何か困ったときには神社に行って神頼みしたりすることがありますから、それも信仰心の一種かもしれません。「日本人は無宗教だ」とよく言われますが、先生はどう思いますか?

寂聴さん:
やはり、無宗教でしょうね。あちこちに神社などがいっぱいありますが、そこへ行って十円か二十円のお賽銭をあげて、「あれをしてくれ」、「これをしてくれ」と勝手なことばかりお願いして、よく言うなと思います。

 本当の宗教心というものは、必ずしも神社やお寺に行かなくてもいいのです。神様や仏様は、あなたのすぐまわりにいます。ですから、その場で手を合わせて、心の中で祈ったら、それで神様や仏様に思いは通じます。でも、人間は弱い存在ですから、何もないと手を合わせられなくて、神様や仏様の像を作って、それに手を合わせたり拝んだりするのです。


小さなことで満足できる人は幸せです

まなほさん:以前、先生は、「少しのこと、小さなことで満足できる人は幸せだ」とどこかで書いていますが、あれはどういうことなのですか?

寂聴さん:どこに書いたかはもう忘れましたが、人間の「欲」というものには限りがありません。もし十が手に入ったら、次は二十が欲しくなる、二十が手に入ったら、今度は百が欲しくなるというふうに、欲には限りがありません。それが人の心を惑わせ、苦しくさせる大きな原因の一つです。

 ですから、小さいもの、例えば十が手に入ったら、「ああ、よかった。これで私は幸せだ」と思って、そこで満足ができる人は余計に悩んだり、苦しんだりすることがないので幸せだという意味です。

まなほさん:例えば先生は、もっと自分の本がうれ売れたらいいのにと思ったりしませんか?

寂聴さん:本が売れなかったら、あなたたちにお給料もボーナスも払ってあげることができません。だから、本が売れるに越したことはありません。そんなことはわかり切ったことです。

まなほさん:売れる、売れないということ以前に、自分が書いたものを少しでもたくさんの人に読んでもらいたいと思うのは、作家として当たり前のことですよね。

寂聴さん:それはそうですが、本はなかなか売れないものです。まあ、あなたが最初に書いた本はたくさん売れたようですが。

まなほさん:でも先生には、『源氏物語』とか、『夏の終り』とか、ずっと長いこと売れているロングセラーがあります。版も重ねている本もたくさんあります。

 話を戻しますが、少しのこと、小さなことで満足するということは、一つのことをじっくり味わうことにもつながると思います。今はいろいろなものが世の中にあって、これもしたい、あれもしたいと、いろいろなことに目移りして、一つのことにじっくり向き合ったり、それを深く味わったりすることがなくなりつつあるように思います。そんな風潮を、先生はどう思いますか?

本当に好きなことであれば、長く続けられます

寂聴さん:その一つのことが本当に好きなことだったら、黙っていても、それをじっくり味わったり、向き合ったりできると思います。でも、人によってはいろいろなことが好きな人もいるし、さまざまな才能を兼ね備えた人もいます。それを一つのこと以外やってはいけないと止めることはできません。

 例えば、親が子どもに「一つのことを飽きずに続けなさい」と言ったところで、それは無理な注文です。その子どもの中にどんな才能が眠っているかわからないわけですから、一つのことに限定するのではなく、やりたいと言うことはいろいろとやらせてあげたほうがいいのです。

まなほさん:でも、私自身もそうでしたが、いろいろな習いごとを経験する中で、結局、いろいろなことに目移りがして、一つの習いごとを長く続けてものにするということができませんでした。

寂聴さん:それは結局、その習いごとが本当に好きなものではなかったからです。もし本当に好きなものだったら、長く続いたと思います。

まなほさん:ということは、自分が好きなことであれば、一つのことに集中してじっくりと向き合ったり、深く味わったりできるということですか?

寂聴さん:好きなことだったら、放っておいてもできます。

まなほさん:では、一つのことを無理に続けるのは、たいして意味があることではないということですか?

寂聴さん:そうです。意味がありません。

まなほさん:でも、昔は「一つのことを長く続けなさい」とか、「一つの仕事に就いたらそれを続けるべきで、ころころ変えるのはよくないことだ」という価値観のようなものがあったと思います。

寂聴さん:それは、自分の才能がどこにあるのか、自分ではわからなかったからというのが大きな理由だと思います。ですから自分の才能がどこにあるのか、できるだけ早く見つけることです。才能のないことはいくら努力したところでものにはなりませんし、ましてそれにじっくり向き合ったり、味わったりするということはできません。

 私はまるっきり嫌いだったのに、小さいときにお琴を習わされて困りました。ピアノは高いからという理由でお琴を習わされましたが、それがイヤでイヤでしょうがありませんでした。だからさっぱり上達しませんでした。ちなみに、姉は三味線でした。

波乱万丈な人生を生き切った瀬戸内寂聴さん。

作家として僧侶として私たちに貴重な言葉を

残してくれました。

あらためてご冥福をお祈りいたします。

最後までお読み下さりありがとうございました。 内容が気に入って頂けましたら、サポートをお願いします♪ 頂いたサポートは、今後も書き続けていく意欲&新たな活動費、加えて他のnote仲間たちの素敵な記事購入費とさせて頂きます♪