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脳出血入院記(16)2022年10月末 退院、そして……

 退院する2日前。
 僕がリハビリから戻ってくると、同部屋の人のスペースから私物がなくなって綺麗になっていた。部屋を移動したらしい。
 僕もあと2日で出て行くし、この部屋を完全に空室にするつもりなのだろうか。僕が退院していくのを同部屋の人に見せないようにする為ということもあるのだろうか。それとも、認知症の人には刺激を与える為に定期的に部屋を移動させるルールでもあるのだろうか。
 まぁ、僕が気にすることじゃないのでどうでもいい。退院する最後になって、この病院に来て初めて一人で気楽に過ごせる。全く気を使わないでいい。結果オーライ。いえーい。
 イヤホンをしないでテレビやスマホを見れる。楽しい。
 パソコンのキーボードも全力でバチバチ打てる。気持ちいい。

 自分の私物を整理して荷造りを始める。
 当日の朝にやっても間に合うだろうけど、気持ちが早まっちゃって2日前から荷造りしちゃう。あと2日分の着替えの下着、歯ブラシ、髭剃り、フェイスタオル、とかの必要最低限のものだけ残して、私物をバッグや袋に詰めて閉まっちゃう。大きい荷物3個にまとまった。あとそれに加えてノートパソコン。
 病室にいただけなのに荷物が多いなぁ。でも、5ヶ月も入院してたって考えたら荷物が少ないのかなぁ。どっちでもいいか。
 いきなり倒れて救急車で病院に運ばれたので、入院の準備の為の荷造りは自分でしてない。病院の移動や部屋の移動があったけど、その時は看護師さんが全てやってくれていた。だから、これが自分でやる初めての荷造り。最初で最後の荷造り。

 退院する1日前。
 最後のリハビリ。でも最後だからと言って特別なことはしない。いつも通りのリハビリのメニュー。これからも決して忘れないように、いつものリハビリをいつも通りにしっかりやる。
 退院後に気を付けることなど聞きたい質問はたくさんあったのだけど、必ず聞こうと思ってたことは既に全部聞いたので、あらためて聞くことはもう特にない。

 最後のリハビリが全て終わって病室に帰ってきて、ベッドに寝転がってこの5ヶ月間を思い返しながらボーっと過ごす。
 倒れたのがずっと前の出来事だったように思うし、つい昨日の出来事だったようにも思う。入院していたのがものすごく長かったように思うし、あっという間に短かったようにも思う。色んなことがたくさんあったように思うし、何もなかった空白だったようにも思う。永遠の時間の狭間に閉じ込めらていたように思うし、あの日から今日まで一瞬でタイムスリップしてきたようにも思う。僕のこの5ヶ月間は何だったんだろう。何があったんだろう。とても不思議な感覚だ。
 夢か。現実か。夢か。いや現実なのは間違いないか。
 まぁ、もう退院するから、何でもいいし、どうでもいい。

 病院のベッドに寝るのは今日が最後だ。
 いや最後ってのは無理か。どんなに健康に長生きしても何十年後かにはまたお世話になる時が必ず来るだろう。それは仕方ない。だけどそれまではもう嫌だ。こんな狭くてギシギシいうベッドではもう寝ない。

 退院する当日。
 朝からリハビリの先生方が来て、励ましてくれた。「もう来ないようにね」なんて言ってくれる。「最後まで気を抜かないようにね。転んだらすぐにまた入院だからね」「家に着くまでが退院だからね」どこかで聞いたことがある教訓のようで、よく考えたら意味が分からなくて笑っちゃう。
 先生からお勧めのラーメン屋さんやアイスクリーム屋さんを教えて貰った。退院したらいつか必ず行こう。そして先生に感想を報告しなきゃ、なんて思ったんだけど、退院したら先生に会わないんだから感想言えないや、と気づいてほんのちょっとだけ悲しくなった。
 リハビリの先生方と笑顔でお別れ。これから身体がもっと動くようになったら、いつか先生に見せに来よう。そしてラーメンの感想を言おう。またいつか会いましょう。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

 看護師さんが来て僕の荷物を確認して、忘れ物が残ってないか部屋の中を隅々までチェックしてくれた。
 最後に看護師長さんが色々な書類などを持って来て、今後の諸々のことについて説明を受けた。
 一通りの説明が終わると、看護師長さんから「これからどうするの?」と聞かれた。僕は「自分で体調管理しながら運動して頑張ります」と答えると、看護師長さんは「みんな退院してからも自分で頑張るって必ず言うけど、どうせやらない。退院したらみんな怠ける。必ずみんな怠ける」「みんな身体が動かなくなって、早く退院したことを後悔して、また入院してくる」と言ってきた。この人は最後までそんなこと言うのね。
 結局、看護師長さんとは最後まで分かり合えなかった。入院患者の為にわざと厳しく指導している人なのだろうかと思っていたけど、もしかしたらストレートに性格が悪い人だったのか。それとも、病院の売上が最優先の人なのだろうか。最後までよく分からなかった。まぁ、どちらにしても、どんな理由だとしても、口の悪い人は嫌いだ。そのやり方が必要かどうかも関係ない。僕は嫌いだ。

 しばらく1人で部屋にいて待機していると、看護師さんが呼びに来た。
 時間だ。
 看護師さんが荷物をカートに載せて運んでいく。
 僕は立ち上がり、自分で歩いて行く。
 誰もいなくなり、がらんとした病室を後にする。

 病棟の廊下を歩いて、ナースセンターを通り過ぎ、入院の病棟と外来の診察を仕切っている重いドアを開けて出る。外来の検査室や診察室の前を通り、ロビーの中を通り、受付の前を通り、正面玄関に着き、自動ドアがゆっくりと開き、歩いて病院を出た。

 僕は救急車で運ばれて病院へ来た。転院する時も、ベッドに寝たまま運ばれた。病室が変わる時は車椅子を押して貰って移動した。
 そして今。僕は病院の正面玄関から自分で歩いて外に出た。

 空は晴れている。良い天気だ。太陽が眩しくて、暖かい。良い日だ。

 脳出血で倒れてそのまま死んでしまう人もいる。死ななくても身体が全く動かなくなって寝たりになる人もいる。身体は動いても頭の記憶や思考が回復せずに正常に機能しなく人もいる。
 僕も身体が動きづらくなってしまった。でも、僕はそれだけだ。ただそれだけ。僕は死なずに生きている。身体が動きづらいなんて、死ぬことに比べればほんの些細なことだ。
 学生の頃に陸上競技をやってきて、捻挫とか靭帯断裂とか肉離れとか色んな怪我をして動きづらくなったことは何度もある。今はそれが重傷で長引いてるだけみたいなものだ。そういうこと。

 僕は、生還した。

 迎えに来てくれた両親の車に乗り込む。
 車が動き始め、病院の敷地の外に出る。
 景色が流れていく。病院がどんどん遠ざかっていく。
 車のスピードが上がり、道路を真っ直ぐに前へ走っていく。

 ……でも、向かう先は、僕が帰りたかったアパートではない。実家だ。
 数年ぶりの実家での両親との同居。不安も不信もたくさんあるが、それでも病院よりはマシだろう。きっと。
 僕の実質的な入院生活はまだ終わらない。延長に入った。

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