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【ショートショート】最高の晩御飯

 朝日が眩しくて目を細めながら、まだ人の少ない街並みを颯爽と歩いていく。無機質なビルに囲まれたこの街にも、たくさんの人の暮らしがあり、様々な動物が息づいている。毎日、同じ道を歩いているが、同じ風景を見ることは一日たりともない。
 でも僕の頭の中は、いつも同じだ。
「今日の晩御飯は何かな?」
 晩御飯の楽しみが、僕の一日の活力になっている。
 有名なお店で外食の予定があるわけでもない。仲の良い友達との飲み会があるわけではない。自宅の晩御飯が楽しみなのだ。むしろ外食の誘いは全て断っている。僕は自宅で晩御飯を食べたいのだ。毎日、自宅で妻が作ってくれる晩御飯を食べたいのだ。
 晩御飯という楽しみがあるから、今日も頑張れる。頑張ろう。

   ×   ×   ×

 料理教室で先生が女性と話している。
「先生ご無沙汰しております。先生のお陰で結婚できました。先生に教えていただいた料理のお陰です。結婚して幸せに暮らしています。ありがとうございました」
「おめでとう。私も嬉しいわ」
「主人は、初めて私の家に遊びに来て私の手料理を食べた瞬間に結婚を意識した、と言っていました。今も私の料理が世界一美味しいと褒めてくれます」
「それは良かったわ。しっかり胃袋を掴めたのね。教えた甲斐があったわ」
 先生は満面のニコニコ笑顔で女性をハグした。
 対照的に女性の顔が暗く曇った。
「でも先生、少しご相談が」
「あら?どうしたの?上手く作れない料理があるの?何でも教えるわよ。何でも聞いてちょうだい」
「いえ、そうではないんです」
 女性は先生から身体を離して、距離を取った。
「結婚してから主人が物凄く晩御飯に執着するようになりまして……」
 先生は、きょとんとしている。
「そんなこと?それだけ?」
「はい。とにかくもう物凄く……」

   ×   ×   ×

 料理で魅了することを「胃袋を掴む」なんて言うが、僕は妻に確実に胃袋を強く強く掴まれている。
 妻の料理を初めて食べた時の衝撃は、今も身体に刻まれている。口から入った稲妻が胃袋の中で暴れ、身体の芯が爆発して、全身を閃光が走り回った。そして胃袋をギューっと掴まれた。ものの例えで言っているのではない。僕には本当に胃袋を掴まれる実感があった。
 それ以来、僕は胃袋を掴まれっ放しだ。いや、もはや掴まれているとかそういうレベルではない。棘の付いた太い縄でグルグルに縛られ、きつく搾り上げられて、ほどけないように固結びされている。僕はもうここから抜け出せない。でもそれでいい。もっと強く強く、きつくきつく、僕の胃袋を掴んで絞り上げて欲しい。

   ×   ×   ×

 先生は両手で優しく包み込むように女性の手を握った。
「それだけあなたの料理が上手で美味しいということよ。自信を持ってちょうだい。味の好みが合っていたのでしょうね。相性抜群だったのよ」
「そういうことでしょうか……」
「そうよ」
 曇っていた女性の表情が少しずつ明るく晴れていった。
「それならいいのですが」
「愛されてるのね。あなたも愛してるのね。幸せなのね。幸せだから些細なことで不安になるのよ」
 先生はあらためて女性をハグして強く抱き締めた。
 女性は真っ赤な顔を先生の肩に埋めた。

   ×   ×   ×

 僕は毎日、妻の晩御飯の為に生きている。
 生きる為に晩御飯を食べるのではない。晩御飯を食べる為に生きているのだ。今日の晩御飯を食べ終わった瞬間に明日の晩御飯を考える。もはや明日の晩御飯を食べる為に今日の晩御飯を食べると言っても過言ではない。僕の頭の中は晩御飯でいっぱいだ。ちなみに今のは、「ご飯一杯」と「頭の中がいっぱい」を掛けた高尚な晩御飯ジョークである。

 妻との結婚を決めた最大の理由は、料理が美味しいから。
 妻は天才だ。プロではないが、「家庭料理の天才」だと断言できる。僕の体調や気分を察してくれて、僕の嗜好に合わせていつも最高の晩御飯を作ってくれる。今まで食べてきたどんな高級レストランや老舗料亭よりも妻の晩御飯のほうが圧倒的に美味しい。
 外食は全くしない。必ず自宅で妻の晩御飯を食べる。毎日作る妻には負担を掛けてしまうが、色々な面で妻には感謝を伝え続けようと思っている。

 妻には、食材を買う為ならお金はいくら使ってもいい、と言ってある。
 成金じみた「高ければ美味しい」なんてことは思ってない。妻が作ろうとした料理があるのに食材が買えない、作れない、なんてことはあってはならないのだ。美味しい晩御飯の為なら金に糸目をつけない。
 お金を稼ぐ為に、僕は仕事を一生懸命に頑張って勤めていた会社でトップの営業成績を収めた。そして今は独立し、社長として自分の会社を持っている。社長になったことで、自分の生活時間を自分で調整できるようになり、常に丁度いい時間に晩御飯を食べられるようになった。

 子供は2人いる。男の子と女の子だ。我が家で子供達と食べる晩御飯はたまらなく美味しい。子供達と楽しく話をしながら、妻が作ってくれる晩御飯を食べる。こんなに素晴らしい時間は他にない。世界で一番美味しい最高の晩御飯。最高の家族。最高の時間。
 最高の晩御飯を食べ続ける為に、妻と子供達にはいつまでも元気でいて欲しい。身体も心も健康でいて欲しい。
 時間がある時は、妻と子供と一緒にいる。一緒に遊び、一緒に出掛け、一緒に勉強し、一緒に食べる。自分の趣味なんていらない。強いて言えば、妻と子供を幸せにすることが僕の趣味だ。

   ×   ×   ×

 先生は女性の手を両手で強く握り締めた。
「これからも旦那さんに美味しい晩御飯を作ってあげるのよ」
「はい」
「美味しい晩御飯を作ってあげるだけで、お金を稼いできてくれる。無駄な趣味にお金を使わない。奥さんと子供を大切にする。浮気の心配はない。美味しい晩御飯を作って食べさせるだけでいいのよ。素敵なことじゃない?」

   ×   ×   ×

 僕は晩御飯を美味しく食べる為に、しっかり運動もしている。体を動かしてお腹を空かせてから晩御飯を食べると、更に美味しく感じられる。運動は健康維持にも良い。病気になると質素な料理しか食べられなくなってしまう。健康な体だからこそ美味しい晩御飯を食べ続けられるのだ。
 だけどそれでも、いつ何があるか分からない。どんなに気を付けていても、ほんの些細なきっかけで病気になってしまうことはある。不慮の事故に巻き込まれてしまうこともある。
 役者の人が、舞台の上で死ねるなら本望だ、なんて言う。
 僕は、妻が作ってくれた美味しい晩御飯を食べながら死ねるなら本望だ。
 僕が死んでも妻の晩御飯はこの世に残る。子供達が妻の晩御飯を食べ続けて、やがていつか妻の晩御飯を受け継いでいくだろう。妻の晩御飯は永遠だ。
 妻の晩御飯フォーエバー。

   ×   ×   ×

 先生は料理教室の冷蔵庫の中身を確認してから、女性に頼んだ。
「ねぇ、もしよかったら、私も食べてみたいわ。私にも作ってくれない?ここにあるもの何でも使っていいから」
「はい。ぜひ作らせてください。お世話になった先生にも食べてもらいたいです」
 女性はキッチン台に立ってテキパキと準備して、慣れた手つきで料理を作り始めた。様々な作業を並行して同時に進めていく。無駄な時間も無駄な動きも一切ない。毎日いつも料理を作っているのがよく分かる。
 その立派な姿を見て、先生は心から感動して、ハンカチで目元をぬぐった。
 女性は手を全く止めることなく料理を作り続け、そして最後に自分で味見をして、満足げに大きく何度か頷いてから、お皿に盛りつけて先生に差し出した。
「完成しました!いつも主人が褒めてくれる得意料理です!どうぞ!」
 そして女性はすぐにキッチン台の片付けを始めた。いつもこうしているのだろう。手際が良い。
 先生はその様子を見ながら、料理を一口食べた。
「げぼっ!」
 慌てて後ろを向いて、吐き出した。
「……これは酷い。恐ろしく不味い」

「ねぇ、私が教えた味付けとちょっと違うような気がするのだけど」
「さすが先生。違いに気づくのですね。やっぱり先生すごい」
 いや、こんなに不味かったら誰でも分かるわ!と先生は思ったのだが、言わずに言葉を飲み込んだ。
「やっぱり味付けを変えたのね」
「はい。自分のオリジナリティを入れました。先生の料理教室に通っていた時に、教えたそのままじゃなくて自分の好きな味付けに調整しなさい、それがあなたの味になるのよ、と言われたので」
「いや、確かにそう言ったけど……」
 女性はオリジナルの味付けを褒められたと思って喜んで、鼻歌を歌いながら調理器具を洗い始めた。
 先生は片付けを手伝いながらその場に残っている食材や調味料を手に取って確認してみるが、見慣れないもの、変なもの、腐っているもの、などは何もない。
「ここにある普通の食材と普通の調味料で、どうしてこんな料理が出来上がるの?どうなってるの?むしろ逆に凄いわ。ある意味、天才かも」
 女性はキッチン台を綺麗に拭き始めた。片付けも早くそろそろ終わりそうだ。料理を作り始めてから片付け終わるまで全てが完璧にスムーズに流れていき無駄がない。
 そんな女性の姿を見ながら、先生がつぶやく。
「この不味い料理を作る奥さんと、これを美味しいと言って食べる旦那さんって……」
 先生は呆れながら、妙に納得した。
「味の好みが合っていたのね。相性抜群」

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