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大正12年(1923年)9月1日11時58分関東大震災が起きた
この日 台風接近による強風が被災地に激しい火災を引き起こした
地震の発生直後の12時には東京で南南西12.3メートル。
強風に煽られ神奈川県揮発物貯蔵倉庫など多量の石油が引火
本所区横網町の4万人が避難していた陸軍被服廠跡では四方から火の手に囲まれ 強風にあおられた大旋風によって3万8千人が焼死
夜には北風となり 最大22メートルの風が吹き荒れた。
強風にあおられ闇夜に真っ赤に燃え上がる炎
すさまじい爆発音 火はあちらからこちらからボウボウと吹き上がる。
各種電話は不通となった。
火事場泥棒、混乱と恐怖。余震はさらに続く。
誰が発したのか不明な情報が飛び交う。
「鮮人が火をつけて回っている」「鮮人が井戸に毒を入れているから井戸の水は飲むな」「暴動が起きるらしい」「○○は肉親を殺された」

東京の被災地からは国鉄高崎線に乗った被災者が鈴なりになってやってくる
高崎駅は人であふれかえった
口から口へ人から人へ 悲惨な話が伝わる
3日朝 内務省警保局長から各地方長官(知事)宛てに「朝鮮人の行動に対する厳密な取り締まり」を命じる電文が送信
藤岡町でも「不逞鮮人ノ暴挙警戒」として在郷軍人会、消防組、青年団などで自警団が組織された。
4日付の上毛新聞は一面で「不逞鮮人が盛んに出没」と見出しを打った
不穏な空気が広がる。
「鮮人が大挙してくるらしい」「今のうちに何とかしないと」
自警団には「まもなく朝鮮人の一団が前橋に来るらしいぞ。」といきり立つもの多数
5日 藤岡警察署に17人の朝鮮人が保護を求めて収容された
自警団は納得できない。いやもう此処で止まることなどできようはずもない。
警察署の周りは1千人いや2千人かとも思える群衆が取り囲んだ
「不逞鮮人をかばうな」「不逞鮮人は殺せ!」
5日午後8時 こん棒、鉄砲、竹槍や日本刀、鳶口を手にした男どもが警察署になだれ込んだ
武装し目を血走らせた集団は留置所にいた朝鮮人17人に襲いかかった
 
「右頸部中央ニ於テ巾四仙迷(センチメートル)動脈ヲ切リ頸椎ニ達ル刺創ノ外手足顔頭等ニ棍棒ヲ以テ殴打セルカ如キ殴創」(藤岡警察署長の死亡検案書より)
 
13人が警察署内留置所前で、2人が警察署前の火の見櫓脇、1人が警察署前成道寺六童、残り1名は死亡した場所は不明。
人相・着衣・及び携行品については、一人が銀側の懐中時計を携帯していたのみで、他の人々は携行品を所持していなかった。遺体の引取人については、16人については「本籍・住所・身分・職業・氏名不詳の朝鮮人」「藤岡町役場町長代理ニ引渡タリ」としているものが殆どであった。
 
「九月一日震災后警察力ノ足ラサル処へ京浜地方ニ於テ不逞鮮人跋扈シ内地人ニ迫害を加ヘタル流言蜚語ニ惑ハサレタル民衆ガ鮮人ニ対スル殺気漲リ群衆襲撃シテ死ニ至セルモノナリ」(検死調書)
これが 日本人が関東大震災時に朝鮮人を襲った「藤岡事件」である
 
「藤岡殺人騒擾被告事件ニ関スル家族慰安寄付金領收書」と題する、藤岡町役場町長代理助役名の領収書書式が残っており
自警団は当時半ば公的な組織であり「その組織的な暴走」により起きたことゆえ
藤岡町役場から事件後起訴されたものの家族には「慰労金」が出されたことがわかっている。
公判では「酔った勢いで射撃したり、男の意気地で後には引けず斬り付けたりした。」という証言もあったという。
 
群馬県で朝鮮から強制的に連れて来られた、無理やり低賃金で働かされた朝鮮人労働者は「知事引継書」で判明している吾妻郡嬬恋村での1630人
間組100年史で記載のある岩本発電所工事などの2000人、太田町史に記載のある中島飛行場地下工場の1000人~2840人など7000人に及ぶ
「お国の為」という名目で日本で働かされ非業の死を遂げた人々を慰めようと2003年群馬県議会の全員賛成で慰霊碑の建立が決まった。
2004年4月「記憶 反省 そして友好の追悼碑」は県立公園「ぐんまの森」に建立された。
 
2024年 その慰霊碑は破壊された
この20年 その前の80年
人間の歴史を そこで起きたことを
なぜ慰霊碑が破壊されなければならなかったのか
過去を知ること 理性とは何か 許し合うこと
尊敬し合うこと それは何か
ここから何が出来るか
いま 思う
 
 
参照  「新聞うずみ火」記者 栗原 佳子
   「なぜ群馬で朝鮮人虐殺は起きたのか」

群馬県の朝鮮人慰霊碑撤去に反対する85歳の抵抗
-猪上輝雄事務局長に聞く-

藤岡町役場文書に残された「藤岡事件」
行政文書に残された朝鮮人虐殺事件


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