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『アリー/スター誕生』変わる女と変われない男

1930年代から現代に至るまで「女が成功するとはどういうことであり続けたのか」という深遠なテーマが隠された映画である。変わってゆく女と変われない男の対比という基本フォーマット。女性の立場を暗喩する様々なディテール。1937年の1作目以降、リメイクで引き継がれてきた本作は、ショウビズ界のフェミニズムの文脈でも読み解くことのできる映画であり、思いのほか、ジェンダーと愛について深く考えさせられる映画だった。「いい音楽映画じゃん、ブラッドリー歌上手いしカントリーロック似合うし最高~」で終われたらよかったのに、そうは問屋がおろさない。しかし、その視点に気づかないなら気が付かないなりにエンターテイメントとして大変高度に成立しているあたりが、すごいとも思った。

Photo by A Star Is Born / Warner brothers

物語の基本フォーマットと通底するメタファー

ショウビズの世界である程度すでに成功を手中にしている男が、ある女を見出し、愛し、成功へと導いたが、女がスターダムを駆け上がってゆく一方で孤独を深め、死の淵へと転がっていく。

1937年の”A Star Is Born”以来、4回目のリメイクとなる今作だが、1937年から引き継がれている基本フォーマットが上記。成功する女と、転落する男が愛と嫉妬で引き裂かれる物語がベースとなっている。

その中に、「女がショウビズの世界で成功を摑むとはどういうことなのか」を表現する、これも決まった描写がいくつか散りばめられており、今作では「鼻が大きい」とされる主人公の「外見への言及」もその一つ。

美しく華やかであること、周囲の(今風に言うと)Suitsの男たちに従順であること、この二つが、「売るコンテンツとしての女」に求められてきた、というメタファーが、この物語には通底している。

※町山先生の解説を参照

変わっていく女と、変われない男

一方で、とてもパーソナルな愛の物語でもある。変わっていく女、成功していく女を、次第に見失い愛せなくなる男。変わらないもの、変わらないことを大切に抱えて取り残されていく男。

この、「変わっていく女/変われない男」「成功する女/嫉妬する男」という基本フォーマットは1937年から変わらず、なんと2018年に至っても有効に使われている。つまり、この構造には普遍性があるということなのだろう。

が、女であるわたしが感情移入したのは、ジャクソン、つまり男のほうだった。

変わっていく女=無節操で主義主張のない女?

最初のありのままの姿を脱ぎ捨てて、さっさとポップスターへと脱皮していくアリーの姿に「尻軽が」と舌打ちしそうになった。止めていた酒に手を出したジャクソンに、完全に憑依していた。「だってアリー、君だって『わたしはいまのわたしのままでいい』って言っていたじゃないか」って、ジャクソンの代わりに言いそうになった。

ポップスターとして飾り付けされる前のアリーの姿を見出し、愛したのは、ほかでもないジャクソンだったではないか。

それをなぜ君は、俺が愛したアリーを押しやってなぜ、あの素晴らしい歌を隅に押しやってなぜ、そんなビッチみたいな歌とシンセサイザーとダンスで、君は、商業主義の寵児になっていくのだ。

アリーがなぜ変わっていくのか、いつの間にかわたしは、理由を探しながら見ていた。

主義主張はどこへ行ったのだ。実はもともと派手好きだったのか?歌唱が好きというよりもただ歌手に、アイドルになりたかったのか?目立ちたい、がすべてだったってこと?主義も主張もどうでもいいってこと?解せない。

変わっていく女=比較され慣れている女?

一方で、なんとか視点を手動で回転させ、アリーの側に立ってみる。「なぜ、わたしは変わることを選んだのか?」

わたしが自分の歴史において、大きくキャラ変したと言える出来事があるとすれば服装だ。そのとき、なぜ服装を変えたのか。

好きな男の目に、他の女よりも美しく映りたかったから。

きっかけはこれだけだ。でも、その変化を増幅させたのは「好きな男」のパートではなく、「他の女より」のパートだった。他の女の着こなしを見ると「素敵だな」と思った後に「でもわたしのほうが似合うかも」が来る。「わたしだってあれくらいは素敵になれる」という、DNAに埋め込まれた闘争本能からの呼びかけ。全ての女に埋め込まれた「わたしのほうがかわいい/あの子のほうがかわいい」偏執病。度合いの差はあれど、断言してもいい、どんな女も抱えている。

社会的に、比較、それも外見の比較にさらされてきた性だから。というような説明も、きっとつくだろう。

であるからして、

アリーを、垢抜けさせたのは、アリーの周りにいた女たちではなかったか。ライバルのディーバたちではなかったか。

比較されることに慣れているから、比較の中で生き残る術として、自身の変貌を厭わない。それが女だということなのではないか。「変わる」なんてサバイバルのひとつでしかない、ということか。

そうだとしたら、「変わる」ことに、郷愁を持ち出すこと自体が、馬鹿々々しいのだろうか。

愛してほしいのは、どのわたしか

終盤、ジャクソンが「元の君に戻ったら、この曲を仕上げるつもりだったのかも」というような発言をする。

「元の君」。

ジャクソンが愛したのは「変わる前の女」だった。それは明らかだ。彼にとってアリーの変化は、悲しいことだった。

ではアリーが愛してほしかったのはどのアリーだったのか。

変わっても変わらなくても、変わる前も、変わった後も、変わる最中も、変わらず愛してほしいということなのか。アリーの核にあるのはなんだったのか。アリー、なぜ変わってしまったの。ジャクソンは、アリーのどの部分を、どのアリーを愛せばよかったの。

愛してほしいのは、どのわたしか。

わたしの深層にある自分への問いかけに重なる。わたしはいつも、「あなたが好きなのは、このありのままのわたしではない」というジレンマに囚われている。だが、では、愛してほしいのは、いつの、どの、わたしなのか。

「本当のわたし」議論。

アリーにとって「本当のわたし」はあったのだろうか。

いや、たとえばこういう回答もある。「すべて」。変わろうと変わらまいとどの時点でもどの地点でも、すべてのアリーを愛せと?

変わっていく女が、”スター”になるとき

この映画のラストは、アリーのソロで飾られる。

それがこの映画が示した「変わっていく女」のいったんの区切りなんだと思う。

愛する人を失ったその喪失が、アリーの創作への情熱にかわり、確固たる表現に変わる。彼女の変容の、中間地点がそこにやってくる。そのとき彼女は”スター”になるんだ、とはブラッドリーの言らしい。(町山先生の解説にある)

しかし、愛する人と引き換えに得た「変容」「栄光」とはいかほどのものなのか。変わらずに、あのままの二人でいられたら。「元の君」を愛してくれるジャクソンと「元のアリー」のままでいられたら。それだって幸せだったのではないか。なぜ、変わらなければならなかったのか。

Born to change...?

しかし。

きっと「変容」とはそういう性質のものではないのだ。理屈ではなく、訪れる。男の目がどうだとか、成功がどうだとか、他の女との比較がどうだとか、いろいろ書いたが、ただなぜか駆り立てられるように、または誘い出されるように、「変容」を希求してしまうときが、人にはあるのだ。

では、変化を前提としたときに、愛はどうあればいいのか。

・・禅問答ループにはまりつつあるので、いったん退去します。

意外にトリッキーな映画でした。

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