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下町音楽夜話 Updated 004「郷愁と優しさ」

フィル・ウッズの「アンド・フェン・ウィー・ワー・ヤング」はJ.F.ケネディ大統領の実弟、ロバート・ケネディの死を悼み作られたという。自分はまだジャズを聴かなかった頃にテレビの画面を通してこの曲を知ったので、ジャズとはこういうものだという見本曲としてインプットされた。しかし多くの曲を聴き知った現在、この曲を典型的なジャズだとは思っていない。むしろ亜流だとすら思っている。現代的な解釈では、ジャズは演奏を楽しむものとして定着しており、スタンダード・ナンバーなどを個性的に解釈して優れた演奏を聞かせるものが主流であり、自作自演は圧倒的に少数派である。最近のブルーノートはそうでもないが、世紀が変わる前後まではそうだった。そういう意味で少数派に属するこの曲は、フィル・ウッズと彼のグループ、ヨーロピアン・リズム・マシーンの代表的な名曲名演と言える。ちなみに、年齢を重ねた現在では、「フィル・ウッズ・ウィズ・ストリングス」で聴かれるテイクの方が好ましい。

しかしこの名演を評するとき、発表された1968年当時としては、明らかに異質なほど緻密な編曲がなぜか耳についてしまう。どう言ったらいいのだろうか、他人の死を悼んで作ったというわりには、あまりにも緻密に構成されてはいないか、ということが気になってしまうのだ。何かもっと感情に押し流されて、「編曲としてはイマイチだけど名演だ」と言う方がこういう場合には相応しいと思うのだ。失礼な話かもしれないが、あまりにもいい曲が書けたので、話題性を持たせるためにケネディの死を持ち出したのかと、要らぬ深読みをしてしまった。大好きな曲なのだが、どうしても醒めた耳で聴いてしまう。大好きなサックス・ソロの出だしが永遠に続けばいいのにという思いとともに、ベースやドラムスがリズムを刻みはじめるとありきたりな演奏になってしまう気がしていけない。そう思いはじめると音質も薄っぺらな気がして気に入らない。1950年代のブルーノート盤などは、遥かにもっといい音で鳴っている。それでも、この曲は好きなのだから困ったものだ。

歌詞のない曲、すなわちインストルメンタルな曲は、歌詞に拘らず作者の思い入れでタイトルが決まる。先にタイトルありきか、曲ができてそのイメージにあったコピーを探し出してタイトルにするか、決め方はいろいろあるだろうが、要は適当に付けられるのである。実にはまっているものもあれば、違うタイトルにすべきではないか、と思うものもある。一方で洋楽の場合は邦題というものもある。最近はレコード会社の人間も英語をよく解するのか、無理なタイトルは少なくなったが、昔はひどかった。慣用句を曲解したものもあれば、恥ずかしくて口にしたくない稚拙なタイトルも多かった。

さてフィル・ウッズの「アンド・フェン・ウィー・ワー・ヤング」は、実はタイトルも大好きだ。「我々が若かったころは…」というタイトルが意味することは、当然ながらその後に「…いい時代だったなあ」というようなノスタルジックな意味合いが込められているのだろうか。「…ひどい時代だったなあ」という類の追憶は、誰も好まない。また「あの頃はよかったなあ」という記憶は誰もが有しており、そういう意味で誰もが共感できるものがそこにある。「better days」という慣用句に「昔はよかった」という意味があることは、翻して「今はよろしくない」「落ちぶれた」といった意味を内包するわけで、あえてこのタイトルにしたことに、彼の愛国心を感じなくもない。1968年という時代がそうさせたと言えなくもない。

映画の「スタンド・バイ・ミー」が大好きだという人間は非常に多い。自分ももちろん大好きなこの作品は、原作者がホラーの巨匠スティーヴン・キングであることが、実はとても興味深い。非常に優れた作品を発表し続けるスティーヴン・キングの追憶の中に、単純なノスタルジーに満ち満ちた誰もが共感できるような部分があることが、ある意味でひどく不思議でもあり、また安心させられもする。少年時代の冒険心みたいなものは、大人になっても失いたくないと思いつつどうしても失われてしまう部分でもある。そのことへの郷愁は同時に楽しかった思い出とダイレクトにリンクしており、ついつい遠い目をして物思いに耽ってしまい、ニヤついてみたり、落ち込んでみたり、人それぞれではあろう。しかし楽しかった思い出が一つもない人間なんて存在しないだろうから、これは人間の心の動きをつかむことに長けたスティーヴン・キングによる、実に巧妙な心理作戦なのかとも思ってしまい、自分も嫌な大人になったものだと呆れている。

「スタンド・バイ・ミー」のタイトルが意味するところは、「自分のそばに立っていて」ということではなく、「自分を支持してほしい」とか「味方でいてほしい」というような意味になる。映画でも使われたベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」は実に弱腰な情けない歌詞なのだが、ああ連呼されると自分もそうやって誰かに助けを求めていられたら心が楽になるだろうに、という気持ちになってくる。弱音を発することを許してくれる周囲の優しさに敏感な人間にとっては、そのことを象徴するものにもなりうるわけで、この曲の持つパワーは実に絶大なのである。そう、弱腰の強力なパワー、なさそうで実は結構あるのかも知れない。一方でポスト・コロナ、ウィズ・コロナの時代には、これまで以上に個の強さ、個の魅力が求められるのかもしれない。人と人の繋がりを重んじる風潮はインターネットやSNSの発展とともに加速した。リセットがかかるとまでは言わないが、今後はそういった部分を見直して、新たなタイプの繋がりが求められるのかもしれない。本当の意味での、辛い適者生存の時代がやってくるのかもしれない。

長年東京の下町で暮らしていて思うことだが、人々の優しさを感じる力の強い人間は、郷愁とともに思い出す楽しい思い出を共有できる心の広さがある。だから人懐こいのかなとも思う。人間の優しさに包まれて暮らしている人間は、当然ながら幸せである。しかしその幸せに気がつかないことも多い。隣の芝生が青く見えるのは人の常であり、そういった部分があるからこそ、人間なのである。弱いからいとおしい、という感覚も人間固有のものかも知れない。これもまたよしだ。

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(本稿は下町音楽夜話051「ノスタルジー」に加筆修正したものです)

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