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海外でバイリンガル子育て〜2人目の子供の場合〜

私がアメリカNCの片田舎で、2人目の子供にも日本語を教えたいという希望を持って過ごした2000年以降の日々の記録です。

20世紀最後の年の9月に、私達の一人娘が生まれました。


日本語の小さなコミュニティができた!

娘の誕生により、私たちは小さな日本語コミュニティを獲得しました。

この年、長男は年齢が4歳近くになっていて、アメリカにいながら私と息子は家ではいつも日本語で会話していたからです。

2人が3人になると、「わたしと息子」「僕とママ」という11の関係だけでなく、私が娘に日本語で話しかけるのを横で聞いている息子、そして、私と息子が話していることをそばでジッと聞いている娘という三角形の構図が成立した訳です。

元主人は出張が多く、1週間ずっと家を空けるようなことがしょっちゅうだったため、我が家では日本語オンリーの時間が頻繁に流れていました。

その結果、娘が2歳にもならないうちに話し始めた言葉はもちろん日本語でした。

これまでにカッカ(娘のこと)が言えるようになったことば、
「カッカ」「いこ〜(行こう)」「ねんねタイム」「アップジュース(アップルジュース)」「いちご」「くるま」「き(木)」「ブラン(ぶらんこ)」「ビーボ(ペットの名前)」など

本の中で、動物の親子の絵があると大きい方を指して「ママ」、小さい方を指して「カッカ」と言う。もう親子の概念が分かっているんだなと感心してしまった。

2002年8月7日の日記から

最近カッカが言うようになったことばは、「おおきい」「ちいさい」「おいしい」「ほしい」など。
今日はプールへ行ってきたのでお腹がすいたかなと思って、「おにぎりほしい?」と聞いたらうなずくので炊飯器の方へ向かおうとしたら
「ちいさいおにぎり」
と初めて2語文が出た! 私は感動して、カッカをハグしてしまった。

2002年8月16日の日記から

「みて〜」「しらない」「どこ?」もよく言う。パパには "Look, Papa!"と言う。

絵本を見て、「ブタはどこ?」と聞くと、昨日までは「ここ」と言っていたのに、今日は「しらない」と言い出した。先が思いやられる…。

2002年8月16日の日記から

ここのところ毎日言えることが多くなり、会話らしくなってくるので嬉しい。私が庭を指して「ほら、うさぎ!」と言ったら、カッカが「ホントだ!」と言ったのにはビックリ!

2002年8月21日の日記から

ゆっくり注ぎ込まれたものが器から溢れ出す時

幼児がことばを発し始めるのは大体2歳前後です。

私がベターベビーセミナーに参加して学んだことの中で、一番印象的で今でも胸に残っているのは以下のメッセージです。

「赤ちゃんはただ眠っているのではない。
赤ちゃんの脳は、生まれた直後から爆発的に成長を遂げている。
起きている間は周囲の音や音声にじっと耳を傾けている。
周囲の会話に耳を澄ましている。
眠っている間は、その情報を記憶に変えている。
そうやって音声情報を溜め込みながら、その言語の特徴をまるごと学習している。

それはまるでコップにゆっくりゆっくり水を注ぎ込む行為に似ていて、
そのコップが一杯になった時ようやく子供は自らその言葉を発し始める
言葉を発するために必要な脳と発声機能との連携が整うのに、
約2年間を要するのである。」

私はこのメッセージにとても大きなインパクトを受けました。

言葉を育てるには「話しかけ」が大切とよく言われますが、赤ちゃんは話ができないから「話しかけ」になるのであって、子どもが大きくなるに従って、一方的な「話しかけ」を相互作用のある「対話」に育てていかなくてはなりません。

これが、家族の役割をテレビやビデオが代用できない所以で、対話には相手の言うことを理解するための聴解力と語彙力のほか、その場にふさわしい答えを判断する能力も必要になってきます。

2002年の日記から(何かの書籍から抜粋)

私はそのことを胸に刻んで娘の最初の2年間を過ごすように心がけました。

2歳の誕生日

お兄ちゃんが言うことを真似する妹

さて、日本語のコミュニティの偉大なところは、人がいろいろな状況で発することばを聞いて、使い方が理解できたことばを真似して自分の言葉にできることでした。

最近、いろいろな単語を口にするようになった。一番よく言うのは「ぼく」! (お兄ちゃんが自分のことをそう言うから。)
「わたし」と私が言うと、カッカが続けて「わたし」と言う。

2002年8月16日の日記から

私は自分のことを「ぼく」とは絶対言わないので、娘が「ぼく」と言うのはお兄ちゃんのまねっこです。

娘はその頃、英語の1人称   I =「ぼく」と理解していたようで、自分のことを「ぼく」と当たり前のように言っていました。

私が自分のことを「ママは〜」と言わずに、「わたしは〜」と言っていれば、こういうことにはならなかったのでしょう…。涙


2歳の誕生日が過ぎる頃になると、ようやく英語も日本語と同じくらい出るようになりました。これもお兄ちゃんの影響が大です。まねっこです。

カッカが Papa, where are you?  とか  Here you go! なんて一端の英語を言っている。

2002年8月16日の日記から

Day Careでの言語が母国語に(涙)

アメリカではElementary School (小学校)に入学する前に、義務教育の一部として5〜6歳で1年間 Kindergarten に行くことになっています。

娘はほぼずっと家で私と過ごしてきたので、Kindergartenに行く前に社会性を養うため家から車で30分ほどのDay Care(保育園?)に通わせることにしました。

Mary's School というモンテッソーリ式の幼児向けスクールでした。そこでは言うまでもなく全てが英語…。

スクールで交わされる会話を難なく理解できて、すぐに溶け込んで行ったのはよかったのですが、娘と私の日本語による会話に幕が下ろされるのには時間はかかりませんでした。(涙)

4〜5歳という爆発的に言語脳が発達する時期に、朝の9時から5〜6時間も英語で過ごしたら、その後も脳が英語のままで居続けるというのは想像に難くありませんでした。

娘は家に帰ってきても、言いたいことを表現するのに英語の方が便利だったのでしょう。そして、私もそれを許してしまって、結局それからと言うもの娘と私の会話は英語オンリーになってしまいました。

日本語会話を聞き続ける日々

娘の性格は独立心が旺盛、負けず嫌いでした。それは別に悪いことではありません。

ただ母親の視点から見ると、その気性が日本語を話す場において少なからず影響を及ぼしたのではないかと思っています。

娘は2番目なので、日本語能力においては先に話し始めた兄の方が絶対的に優っていました。

多分、勝ち気な娘はそれが嫌になったのです。

どれだけ努力をしたところで、お兄ちゃんよりうまい日本語を話すことは簡単ではない、それならいっそのこと辞めてしまおうと…。

それが真実かどうかは誰にも分かりませんが。

ただ、その後学校に行くようになってから娘は父親の影響で猛烈に英語の本を読むようになり、州内の7年生EOG(End of Grade test 学年度末テスト) で英語の語彙力、読解力でトップ5%に入るまでになりました。

私の英語力など、娘が小学校時代に軽く抜かれていました。

そんな娘ではあったのですが、家庭生活においては相変わらず私は息子とは日本語で会話を続けていたので、否応なくそれに晒され「日本語を聞くことには慣れていた=言っていることは分かっていた」んだそうです。

子供の成長は全くもってケースバイケースだと言うことを私は学びました。

親が同じ兄妹であっても、同じ教育方針で育った子供たちであっても、微妙に環境は異なり、性格も同じではありません。

なので、何が一番とか、これは絶対やらせるなどと決めつけることなく、その子が伸びて行きたい方に伸ばしてやるのが理に適っているのではないかと思います。

金沢 犀川のほとりで

日本語に回帰した大学時代

娘が大学に入学して家を離れたのを機に、私は日本へ帰国して暮らし始めたのですが、それから間もなく新型コロナのパンデミックが勃発しました。

アメリカの大学でもオンライン授業が中心となり、娘は専攻が理系だったため実験等ができない状況を嫌って休学し、しばらく日本で暮らすことを選択しました。

私と一つ屋根の下で暮らしたのでは、以前同様英語でやりとりする状況が続くと思ったので、日本人の学生たちと共同生活をするシェアハウスに住む提案をしたところ、娘も同意しました。

日本語の読み書きを指導してくれる先生も見つけ、初めてほぼ1年を通して日本の季節の移ろいや和食がメインの食事を経験した年でした。

そのおかげで娘は大学に戻ってからも日本語の授業を取って上達を続け、今では私たちの会話は日本語と英語が50/50の状態にまで変容しました。

以上が、2人目の子供が日本語を獲得して行った大雑把な過程です。息子とは性格が異なり、進んだ方向も全く違うのですが、お互い日本語を話すと言う点で繋がっていると感じています。

ここまで、読んでくださった方、有難うございます。何かのご参考にして頂ければ幸いです。


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