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感情的な言葉を文字にしてまで伝える人が気がつかないこと

文章で人を罵ること

手紙やメールなど、文章をつかって人を罵るというのは、最も感情コントロールのできていない結果の行動だ。

会話の中で感情的な言葉がでるとき、というのは、あくまでもその瞬間に腹が立って、自制がきかずに「うっかり」出てしまうもの。
うっかり出るということは、組み立てられた文でもなければあれこれ考えて用意する言葉でもない。

しかし実際には「感情的になってうっかり言ってしまっただけ」とは言いながら、バカとかアホのように本当にポロっと口がすべるものから、明確に相手の弱点を貶したり嫌味を言ったりする場合もあるのだ。

うっかりとは何か

いくら口頭で、その場の瞬発的な感情だったとしても、酷い罵り方をする人というのは、相手を嫌な気持ちにさせようと、その語彙を選んだ上で使うのだから、冷静なのだ。こうなると本当に「うっかり」なのかあやしくなってくる。

では、感情的になったときの表現、というのが文章だとどうだろうか。
頭の中で文章を組み立てて、書き起こして自分の目で読んでから相手に送るのだから、これはもう「うっかり」とは言えない。
自分の書いた文面を見ている間に気持ちの整理がついてきて「自分は感情的な文章を書いている」という事を自覚するものじゃないだろうか。相手がうけとったらどう思うか、自分のほうが品がなくて恥ずかしいのではないか、等いろいろ人によって考えることは違うにしろ、頭を冷やす時間はたっぷりあるのに。

「感情的な」の前提が違う

けれど中には、書いているうちにますます怒りが込み上げてきて、相手をこてんぱんに罵るような文を送ってしまう人もいる。

考えて、書いて、読んで、これだけの段階を踏んでも感情がおさまらない、むしろ余計にコントロールがきかないというのは、いくらその人が正しいことを言っていたとしても、周りにいろんな歪みを生み出してしまうものだ。

これは本当に「感情的」なのか?
僕はその前提に間違いがあると思う。

相手を罵る文章というのは、自分でそれを書きながら、どんな言い方をしたら相手がよりダメージを受けるかを想像しながらでないと書けない。
「感情的」というのは本来理性を失う状態なのに、言葉を駆使して相手を攻撃しようとするのはしっかり思考した上で意図をもってやることである。
意図して相手を罵ったり貶したりするのは「感情的」どころか、冷静に意地悪をしている性格の悪い人である。

瞬間的に怒ることは動物的であり、あまり理性が働かない行動だから「感情的だった」と言って問題無いのである。そういうことは誰にでもあるのだ。

ところが必要以上の罵倒で怒りを伝えていれば、それがいくら正しいことを言っていても、周りの人はどう感じるだろう。
相手を罵ってやろうという意図があるのは「感情的」とは言えない。
その性格からは誰しも距離を置きたくなる。

感情的な人のズレ

感情的な人が指摘されるとこう言う。
「思ったことを」言って何が悪いんだ、と。

そう、
その「思ったこと」こそが問題なのだ。

誰かにキツい言い方をする時に、
相手を罵ることと、歯に絹きせぬ、のは違う。

事実をそのまま言うことは、ただの正論であり、「事実として違うと思った」ことを違うとありのまま伝えるだけなのだ。
しかし多くの人は事実から目を背けてるので、ハッキリ言われると心地が悪い。

罵るというのは、自分が「気に入らないと思った」気持ちを、嫌な言葉や言い方にしてわざと相手の琴線に触れるように言うことだ。

「違うと思った」を伝えるのと「気に入らない」を伝えるのとはまるで違うし、その結果、事実を告げられて認めたくないのと、相手を心地悪くするために嫌な言い方をするのもまるで違う。

その二つの区別がつかない時点で問題であり、「思ったことを言っただけ」と主張する感情的な人の「思い方」にズレがあるのである。

そして感情的な人というのは、相手から「事実として思った」を告げられた結果、それに対して「気に入らないと思った」ことで相手を罵るのである。
物事の発端までがズレていることがある。

理性で自己認識をもつ

感情的になったらいけないのか、とか、感情的な人を悪者にしていると聞こえる人もいる思うけど、それが、世の中を良いか悪いか、勝ちか負けかという感情で捉えているのだと思う。
どちらが得か損かという考え方や、周りが心地いいか悪いかという考えもある。

感情的な人というのは、自分は吐き出して相手が言い返さなくなったらそれで勝った気になっているかもしれないが、それで本当に気分が晴れているということはないと思う。
周りからも決してその人が勝った、とは思われないだろう。いくらその人が正しくても、周りは心地悪くする面倒な人だから関わらないでおこうと距離をおかれるだけなのだ。

それは、本人にとって幸せとは言い難い。

それを自分で招いていることに気がつかないのはさらに幸せとは言い難い。

理性とはそれに気がつくためにあるのではないのか?

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畠健太郎 プリズムデザインラボ|フリーの先生
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