見出し画像

生きづらさの紐とき 第6考「理由は『つらい』で十分」

つらさは本人のもの

いきづらさは、その人なりにそれぞれ違うものだけれど、共通していることもいくつかはあるように思う。
それを紐解いて、共有することができれば、すこしでも誰かが誰かに寄り添えるきっかけになるかもしれない。

いきづらさと関連して、めだって耳にするのは、発達障害、双極性障害、統合失調症。そしてパニック障害、PTSD、神経症、それらの重複やグレーゾーンを含めて、本当に多くの人が「いきづらさ」を抱えている。

気持ちが弱いだけ、逃げているだけ、と言う人もいる。そんな意見を気にすることもないのだけど、中二病をこじらせているといわれたら、ある意味で間違いでもない。
なぜなら、いきづらい人たちの心というのは、思春期のように多感であり、過敏であることが、ずっと続いているのだから。

そんな風に「生きづらさ」をたしなめる人もいるけれど、そんなことを言っても本人が「つらい」という事実はなんにも変わらない。

つらさは、本人のものだ。

足を怪我して痛がっている人の前で、あれが原因に違いないとか、どこの筋肉を痛めたに違いないとか言っても痛みはひかない。そんなことよりも、すぐにさすったり、ひやしたり、おぶってあげたりするものだろう。

なのに「こころ」の問題になると、人はかんたんに「普通それくらい大したことはない」と、つらいと言っている人をつきはなしてしまうことがあるんだ。

そんな世間の普通が、いきづらさを慢性化させている。

社会は寛容で学校が不寛容

疾患のカテゴライズを増やしていくと、それまで「障がい」ではなかった人までが、細かく分類されて「支援が必要」とされてしまうことがある。特に学校がそうだ。

いまの「発達障害」がどんどん増えている状況。まだまだ増えるだろう。
「発達障害」というカテゴライズや名称は、それがあることで、適切な対処や配慮ができる。当事者が日常生活において抱えてしまうストレスを、少しでも減らせるのなら、とても有益なことなんだ。

でも幼児期の発達の凸凹は、多くの子どもにも存在するし、結果的には、幼稚園、小中学校と段階的な社会生活の中で、ゆっくりとでも「生活のすべ」をみにつけていく。

そんなに多くの人を見たわけではないものの、学校生活のなかで凸凹のある難しい人でも、しっかりと働いていたり、本当は気づかいができ、必要なときにしっかり礼節を身につけているグレーゾーンの10代はちゃんといた。

社会でよりよく生活するために学校があるあるはずなのに、その学校にこそ過ごしにくさを抱えて、社会ではしっかりと生活できているのだ。

なら「いきづらさ」は学校がうんでいないか。当事者が納得できないまま「枠」に無理やりはめられてしまい、そこでつらさを抱えてしまう。

「凸凹」ということばは、きれいな「□」が良い、平らが良いということを前提にしている。

ある部分では、社会のほうが凸凹に寛容であり、活躍の場があり、学校組織や制度のほうが当事者を無理やり平らにしようとおさえつけ、その反動に気がつかない。

むりやりおさえつけるから、凹になり、
おさえつけたことに反発するから凸になる。

周りがそんな風にしたつもりはなくても、「普通」というルールは、一方的に当事者を押さえつけているんだ。

「つらい」それで十分だろう。

たとえば、障がいがあったり、鬱やパニックであっても、対処法をみつけて本人が自分と上手く付き合い日々を過ごせているのなら、それでいいはずだ。
支援が必要ではない場合もあっていい。

芸能人が自身の発達障害などを告白すると、世間では評価する雰囲気があるように思う。しかし、それはハンディキャップをすでに克服して成功した、という後出しの告白だ。

実際に、一見なんの問題もないように見える人が、自分はハンディキャップをもっている、障がいをもっている、日々の生活がつらい、と訴えているときに、人はどのように判断するのだろうか?

もっとがんばってみたら?努力がたりないのではないの?本当にやれることやってみたの?

本当に、病気なの?

まだまだ、そんな意見が多いと思う。

自分の現状をきちんと知ってもらおうと、どのような障がいで、どのような病気かを報告しているのに、それを病気に盾にしているようにうけとる人もいる。

では「いきづらさ」を主張しているひとが、実際にはなんの障害にも疾患にも当てはまらない、ということがあったらどうするのか?
寄り添いはいらないのだろうか?

本人が「つらい」のなら、
「つらい」で充分な理由になるだろう。

むしろ、どのようなカテゴリにあてはまらないが「生きづらい」というのは、なおさらに過酷なことではないだろうか?

では、もしかしたら、その人は、なにかの障がいや疾患のふりをしているかもしれない。思い込みで、病気のようになってしまってるのかもしれない。
それならば、寄り添いはいらないだろうか?

それは、ふりをしなければいけないほどにつらさを抱えている。思い込まなくては保てないのだ。
病名なんてどちらでもいいことなんだ。

本人がつらさを抱えているのなら、
障がい、病気であろうとなかろうと
関係はない。

何ができるかはわからなくても、
よりそう、というのはその言葉通り
ただ隣にいるだけでも
それでもその人を肯定できるのだ。

ぼくの記事がお役に立ちましたら、お賽銭を投げ込んでいただけると嬉しいです。 それを眺めてなんどもニヤニヤすると思います。