グレゴワール・シャマユー「人体実験の哲学」書籍紹介
邦訳は明石書店より
人体実験の歴史は長い。人体を使って何か、特に薬や治療の類を試すということは、人間が生じて古くからおこなわれていたであろう。
そもそも、人体実験とはなにか?
強い効果のありそうな新薬を患者に投与することは、治療か?実験か?
人体を用いた実験が、現在まで続く科学・医学の発展に必要不可欠であったことは言うまでもない。
本書の表紙にある通り、人体実験は「卑しい体」で試すのが原則であった。
罪人、風俗嬢、貧乏人 etc....
本書では長い人体実験の歴史を、フランス・ヨーロッパを中心に綴っている。社会構造の変遷や人々の価値観・倫理観の変化とともに、その「卑しい体」の示すものが次々と変化してきたことがわかるだろう。
死刑の決まった罪人の体で実験をする、貧乏で医療を受けられない人々で新薬を試す、植民地の奴隷たちに感染症の媒体を投与する
これらは「アリ」か?「ナシ」か?
これらの判断に関与するのは、民衆の倫理感だけではない。
実際に手を下す医師・科学者の倫理観、実験対象の入手経路、政府によって敷かれる法令、その疾患治療開発の切迫性、
非常に多様な要因が関与して、人体実験いうものの様相は時代とともに変化していく。
現代日本の価値観からは考えられないような非倫理的な実験が行われていた事実を知ることができるだろう。
しかしながら、それらの実験対象になった人々は一概に「被害者」とは言えないのである。
ペストや黄熱病などに代表される感染病によって、国ひとつ、人類全体が危機に陥った例は枚挙に暇がない。
現代でも、社会全体が感染症や生活習慣病といった疾病に脅かされている。
人体実験の被験者になることは社会の崩壊・人類の絶滅といった「リスク」を背負うことなのである。
それが善行であるかはともかくとして、社会や人間という種の存続には必要なものであったことは、特に感染症の例からはよくわかるだろう。
では、誰にリスクを負わせるべきか?
その答えに、当時の社会情勢や、医療水準が反映されている。
罪人の体が手に入るような政府と医師の関係であったか?実験台になってでも医療を受けたい貧困層が存在したか?奴隷とされ扱われる人々が存在したか?
現代のように動物実験で代用ができたか?その病気について何が分かっていたか?既存の治療があったか?
それらの要因をもとにして誰にリスクを負わせるべきかの判断はなされていくが、その根底には「アリ」「ナシ」を決定する倫理観と人間というものに対する哲学があったことは、容易に想像がつくであろう。
今の現代日本人に問えば、たとえ死刑囚であっても、ひどく苦痛の与えられる実験の被験者にすることを躊躇う人間は多いのではないだろうか。
不治の病で余命幾ばくも無い患者に、ひどく苦しむ副作用があるが奏効する可能性のある治療を施すことを良しとするかは、人によって意見が分かれるだろう。
この書の題名が表す通り、人体実験の歴史は人々の「哲学」の変遷であるのである。
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