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東京マラソンを完走しても達成感を得られなかった

先週の日曜日に、東京マラソンに参加しました。
挑戦した理由、そこから何が見えたか、自分の気づきを残しておきます。

なぜ走ったのか

走った理由は一つ。
自分を好きになるために走ろうと思った。
これまで成績も平均点以下、優秀な内部生や、同期に対する劣等感を持って生きてきた私にとって、自分が自信を持つためにできることは「苦しむこと」。
できない、と諦めてしまうことや、何か苦手なことに(苦しみながら)挑戦して、「こんな私にもできる」を一つずつ増やすことが自分を認められる唯一の手段だ。

世界で一番嫌いなことを克服できたら、
私は自分に自信を持てるのだろうか?


何を隠そう、私は走ることが大大大嫌いである。
小学校のリレーの選手になりたくなくて選考会でわざとゆっくり走るほど。体育の授業では、持久走でいかにサボるかしか考えていなかったし、駅伝大会なんてザ・ベスト・オブ・苦痛。何が楽しいのだ?走るのが好きな人とは一生分かり合えない。
でも、嫌いだとできない、とは限らない。もしかしたら、実際やってみたら楽しめるかもしれない。何かが変わるかもしれない。そこで、東京マラソンに挑戦することを決めた。


42km走りきる=歩かない

これは走る前に決めた、自分との約束である。
マラソンに参加するのに歩く自分を許せないと思ったからだ。
お陰様で、結果として歩かずに完走することができた(タイムは4時間半)。

しかしながら、私が走る前に思い描いていた理想の姿である、「苦手なことを克服して自分に自信を持った姿」には変われなかった。ゴール地点では笑顔で自撮りするインスタグラマーたちの中で、私1人だけ、「私はなんでこんなに辛いのに走っていたんだっけ?」となった。走りたかったのに当選しなかった人に申し訳なくなって泣いた。

本当に、フルマラソン走りきって達成感を得られない自分はどうしたら幸せになれるんだ、とわからなくなる。笑


自分に足りなかったもの

この経験を通じて、私は嫌いなことを克服することで自己成長を実感してきたけど、成長してどうなりたいかは何にも考えていなかったことに気づいた。ゴールがないのに、よく走ったものだ。
なんとなくすごくなりたい、でも成長はしていたいって、手段が目的になってるよなーって、当たり前か。


人のために 優しくなりたい

走ることで気づけた、当たり前への感謝をここに記す。

走らせてくれた自分の身体。この身体を誕生させてくれた両親。当選させてくれた運。交通規制。「雨だから、ウインドブレーカーな!帽子もかぶれよ!」と言ってくれた愛すべき夫(このアドバイスがなかったら寒くて完走はできていなかったでしょう)。

それと、応援。応援って、すごい。人を強くする。
中間で心が折れかけた私にキットカットをくれた沿道の人、ポカリスウェットを手渡ししてくれたり、ゴール時によく頑張ったねってメダルをかけてくれた運営スタッフ。あの雨の寒い中、沿道で応援していた人たち。みんなが優しさでできているように感じた。私、今まで東京マラソンの印象なんて「バイトを忙しくするイベント」と思っていたからね(東京駅でバイトをしていた)。今まで知らなくてごめんなさい、が止まらない。

そして、東京マラソンに挑戦したランナー38000人への敬意。これって一緒に同じ場所で走っていたからわかること。
大迫選手ほどの人間が完走できなかったニュースを見て、マラソンって、なんて過酷なスポーツだ、と思った。
マラソンの時に雨が降るのは、物凄く冷たくて、足の感覚がなくなってしまう。30kmを越えると、みんなが僅かに残った気力で走っていて、こんなことも経験するまでわからなかった。

だからさ、一歩踏み出して経験してみることって
本当にすごいことだと思うのです。
やってみないと、わからない。

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今回のマラソンを通じて、応援に支えてもらった。
これから、私も誰かにとって、そんな存在になれたら。
自分にできることってまだまだあるかもしれない。

励みになります。