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大人になってから、ぶっとばしたところに
わたしには、あの文章がそう見えたのだ。
すまスパにも出演されたお犬さま、お加減いかがでしょうか。元気になりましたでしょうか。
ぼくたちは、大人になってからぶっとばした。ことばという爆弾をもって。何をぶっとばしたのかって。
年齢も性別も仕事も。
見た目や体裁を構成する、鎧のような何か。普段気づかないうちにしがみついている何か。社会で生きていこうとするとみんなが既成服のように身につけてる何か。
そのときにはそれと気づかないのだけれど、気も遣うことなく話が進んでいくと「おや、こんな話を人にしたことがないな」ということが出てくる。
私たちに深い達成感をもたらす対話というのは、「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって、それが言葉になって二人の間を行き来したというものではありません。そうではなく、ことばが行き交った後になって、はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人が知った、そういう経験なんです。
そうしているうち、会話のなかに「まだ語られていないこと」や「これから語ろうとしていること」、「共有しようと思っていたけれど、まだできていないこと」が内包されているのではないか、と肌で感じることがある。
すでに表に出たことをきっかけに「まだ、言い足りないこと、聞き足りないことがあるんじゃないか」と感じるのである。
ぼくたちは、二人だったのか。
いいえ。
こういう体験は、三人だっていいのだ。
すてきな案内役に導かれて、ぼくたちはギラギラした日射しの下で、見えない鎧を脱いでいた。
せせらぎの散歩、川で何かを捕まえた子どもたち、洒落た調度のある店内、偶然見つけた看板、足踏みポンプと水車…。
すてきな案内役であるところのあの方は、こうおっしゃる。
今日世界が終わるなら、お昼寝している間に終わってほしいな。
この大らかさには、かなわねぇ。
おや、
これ以上しゃべると、イグノーベル賞のスピーチよろしく「そろそろおやめなさい」と言われてしまうので、このへんにしておくのである。
一杯コーヒーでも飲みましょうか。
…あ、このコーヒー、黒ひょうの肉球のにおいがする。
さて、つづきはまた、近いうちに。