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のぞみ、あるいはその本質

 さわきゆりさんの書かれた書籍「パラダイス」が手元にある。最初に収録されている作品「ガーディアンベル」を読み終えたときに感じたことを忘れないように文字に仕立てたら、こうなった。わたしが思い浮かべたのは、のぞみ、という言葉だった。
※ヘッダー画像は書籍「パラダイス」の表紙より



 のぞみ、という言葉から想起されるイメージ。音読みすれば、きぼう、となる。こうあってほしいと願うこと。こうあってほしいと願うのは、世の中に対してか、他人に対してか、それとも自分を省みた結果か。思いの向かう対象はひとの数だけあるだろう。

 のぞみを実現するために必要なもの。絶対になければならないもの。意志か、タイミングか、他人の助けか。それはのぞみがどういうものかに依るだろう。どんなのぞみであっても、叶えるために必要なもの。それは時間。

 こうであってほしい、と願った瞬間からそれが叶うまでには時間という隔たりが必ずある。出発してからのぞみの実現に到達するまで、ひとは短いとは言えない時間を過ごす。のぞみが叶うまでの間、ひとはその実現を待たねばならない。「待つ」という受動的な状態に置かれる。

 「待つ」とは何か。対象や相手への信頼である。あの人は待っている。待っていてくれる。
 待っている人のところへ駆けつける立場なら、そこまでの距離をもどかしく思い、しかしその目標へ確実に近づく喜びと焦りと疲労とを感じることだろう。
 ひるがえって、待つほうの立場はどうだろう。のぞみという名をもつ不確定な未来を待つ。見えないものを待つ。音沙汰のないものを待つ。気配のわからないものを待つ。待つことの不安定さを、昔の人はこう言った。

いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。

太宰治 待つ

 それは、何かの訪れを信じてそこにじっとしていることでもある。

 変わらないものを変わらないとそのまま認められるまでの時を待つ。人として取り替えることのできない物語をまるごと受け容れられるその時を待つ。待つひとは、耳を澄ませる。耳を澄ませば、そこにひとの息遣いのあることがわかるだろう。

 変わりゆくものと変わらないもの。変わりゆくもの、変わらないものとはなんだろう。「いやぁ、変わらないな」と言うか「ああ、変わったな」と思わず口に出すのか。いつそう感じるのだろう。友人を目にした時、久しぶりの故郷を目にした時、何年も会わない親や子供に会った時…。
 ああ、変わらないな、と安心したい側と、安心に至る相手を待つ側と。その思いがひとつになるまでに必要なもの。頭に去来する思い出、交わす会話、目の前にある食事、それには必ず時間がついてまわるのだ。

 お互いに着地点がわからないままその時間を過ごすこと。その時間は不安でもあり、忍耐でもあり、理解したいと願うこころの動きでもある。それは「のぞみ」という表現に行き着くのではないか。
 のぞみとは、まだ明らかな信頼に達していない状態であって、こうであってほしいと思う心もとない状態でもある。そこには焦りのような静けさが流れている。相手のことを理解したい、理解してほしい、じりじりとしたもどかしさ。その距離を縮めたいと思いつつどこかためらう時間。もしかしたらダメなんじゃないかと期待を放り投げたくなる時間。

 ひとは、そういう時間に向き合うから「のぞみ」という形のないものを掴み、叶えることができる。
 形のないものを自分のものとするために、形あるものを頼ることもある。それは弱さではなく、こうあってほしいという願いの投影なのだ。

 わたしは「ガーディアンベル」から、書き手が人間存在に向けたまなざしの一端を垣間見た。



「ガーディアンベル」収録のパラダイスはこちら。

わたしは、文学フリマ東京35にて、著者のさわきゆりさんから直接買い求めることができました。
やった!


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