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メディア批判

どうも、犬井です。

今回紹介する本は、ピエール・ブルデューの『メディア批判 (シリーズ社会批判)』(2000)です。この本は1996年に出版された『Sur la télévision』を全訳した書となっています。

タイトルの通り、本書はメディア批判に焦点を合わせていますが、むしろ、テレビや新聞などのメディアがいかにして作られているかの構造やメカニズムに重きを置いています。

出版当初、フランスの著名なジャーナリストたちから極めて激しい反発を受けた問題作を、以下で簡単にまとめていこうと思います。

構造的腐敗

以下では、テレビにとりわけ有害な形で象徴暴力を行使させている一連のメカニズムを解きほぐしていく。象徴暴力とは、それを行使している人と被っている人の双方が、自分が行使し、自分が行使されていることを意識せず、その作用の前提に共有すべきものが明示化されないゆえに、あるいは、その前提が当たり前のように共有されているがゆえに、作用する暴力である。

例えば、テレビは誰もが興味をもつような性質の事実を中心に報道し、情報源をテレビに頼るしかない多忙な人々に、自らの民主的な権利を行使するために持っていなければならないはずの適正な情報を排除してしまっている。

このために、情報に関しての分断、いわゆる堅い新聞や国際的な雑誌に触れることのできる人々と、他方で、ほとんど無に等しいテレビによって得られた知識しか持ってない人々の間の分断に陥っている。

情報の画一化

ジャーナリストが報道する情報を選別する原理は、人目をひくもの、例外的なものを探すことにある。そしてその情報は演出され、「絵」となる。同時に、ことの重大さ、深刻さ、悲劇的で悲惨な特徴は誇張される。

また、そうした情報は他紙に先んじて報道しようとするスクープ競争を強いる。他者を出し抜き、他者よりも前を行こうとし、あるいは他者と違うことをしようとして、互いが互いの前をして、結局はみんなが同じこと、独占報道の追求を行なっている。競争は、他の領域では、独自性、異色なものを生み出すが、ジャーナリズムにおいては、画一性と凡庸さをもたらすのである

例えば、編集会議では、他紙についての話題、とりわけ「よそがやっていて自分たちがやらなかったこと(逃したこと)」について話すのに、かなりの時間が費やされている。また、競争相手のテレビ局がある問題を「追って」いるから、他でやっていないことを少し付け加えて自分たちも「追う」、ということが起きている。

こうして、情報の最も重要な部分、つまり何が重要で何が伝えられるに値するのかを決定するという、情報についての情報は、そのかなりの部分が、情報を流している他の人たちが源泉となっている。そして、これは、一種の平準化、重要度の序列付けに関する画一化に行き着く。

凡庸化する力

報道機関やあるいは何らかの表現手段が、より広い範囲の公衆を捉えようとすればするほど、耳障りなこと、意見の分かれること、対立を引き起こすこと、こうした全てが、そこから失われる。つまり、視聴率を取るために、「誰の気にも触らない」ことを報道することに専心するようになるのである。

こうして、人々が集団で行うあらゆる作業が、均一化し、凡庸化し、「順応」し、「脱政治化する」傾向を持つようになり、受容者の認知のカテゴリーに完全に合致したものとなっていくのである。

また、テレビのニュースキャスターたち、討論番組の司会者たち、スポーツ・コメンテーターたちは、良心の小指導者になっている。彼らは他人からほとんど強いられる必要もなく、自分たちを典型的な小市民的モラルの代弁者にして、自分たちが「社会の問題」と呼んでいること、例えば郊外での犯罪や学校での暴力について、「考えるべきこと」を語るのである。

言論であろうが行動であろうが公的な討論にアクセスするためには、この、ジャーナリストによる選別という試練、すなわちジャーナリスト自身が自分たちがそれを行なっていることを知ることなしに行う、このとてつもない検閲に従わざるを得ないのだ。

テレビ、ジャーナリズム、政治

ジャーナリズム、特にテレビのように、絶対に退屈させてはいけない、何としても楽しませるのだという強迫観念が支配する世界では、当然のことながら政治はプライムタイムからは出来るだけ外すべき始末の悪いテーマとなる。

したがって、もし扱う際は、論説記者は敬遠して、お笑いタレントをキャスターにすることになる。単なる娯楽、特にいつでも取り替えられる御用達のゲスト達の間のトークショーという無意味なおしゃべりが横行することになる。

こうして、視聴率を下げてはいけないという強迫観念から、討論より口論を、対話よりも言い争いを優先させている。討論の真の争点についてそれぞれの論点をつきあわせるのではなく、人間同士の(特に政治家同士の)衝突を際立たせるためにあれこれ演出するのである。

つまり、ゲームの争点よりもゲームのプレイヤーを重視する。議論の内実よりは全く政治的戦術の問題を、発言の内容よりも政治界の論理(政治家の間の連携、同盟、あるいは抗争の論理)の中でその発言が持つ政治的効果を重視するのである。

入場権利料と退場の義務

より多くの人々のに視聴されるためということを、界への入場権利料を引き下げる口実にするべきではない。これは、エリート主義などではなく、エリート主義とデマゴギーの二者択一を退けるためには、生産者の界への入場権利料の水準を維持し、引き上げるべきだと言いたいのである。そして同時に、退場の条件と退場する際の手立てをより恵まれたものにするという前提のもとに退場の義務を強化しなければならない

あらゆる前衛的な探求は(定義によって)本質的に秘教的である必要がある。しかし、それとともに秘教的なものを公の教えとし、その普及を適切な条件のもとで行う手段を獲得するために闘うことも必要である。困難を克服するためには、自分たちの小さな城壁の中にいる生産者が、そこから出て普及のための好ましい条件を獲得するために、自分たち自身の普及の手段を所有するために闘わなければならない。

民主主義の名の下に、視聴率計算と闘うことができる、といえば逆説的に聴こえるかもしれない。しかし、実際には、視聴率計算とは、市場、経済的なものの制裁、すなわち外的で純粋に商業的な利益の視点からする規則性による制裁でしかない

テレビは視聴率に支配されることで、自由で見識のあるとされている消費者に、市場の拘束を押し付けることに貢献している。つまり、見識のある、理性的な、集団的意見、政治的な理性の表現を持てないでいるのは、このためなのである。

あとがき

本書は、20年以上前の、主にフランスを舞台として書かれたものです。しかし、その内容は古びるどころか、現代の日本のメディアの構造やメカニズムを分析するために、非常に有益な指針を提示してくれています。

特に、メディアの「誰の気にも触れない」報道が、受容者を均一化し、凡庸化し、順応させ、脱政治化する、という指摘は、最近の世論をみていると、頷くところが大いにありました。

また、これからメディア論について少し勉強しようと考えているので、次回まとめる本も、メディア論に関する重要な著書をまとめたいと思います。

では。

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