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ショック・ドクトリン

どうも、犬井です。

今回紹介する本は、ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン〈上・下〉――惨事便乗型資本主義の正体を暴く」(2011)です。本書は2007年に出版された「The Shock Doctrine: the Rise of Disaster Capitalism」を全訳した書です。

本書は、「規制なき資本主義の成功は自由にあり、歯止めのない自由主義と民主主義とは矛盾なく両立する」、という考え方に真っ向から意を唱えています。そして、資本原理主義ともいうべきこの形態がいかに残忍な弾圧によって育まれてきたか、また、それが政治団体および幾万の人間の身体が痛めつけられてきたかを明らかにしています。

ネオリベラルの俗悪さを暴く最高傑作とも言える書を、簡単ながら、以下でまとめていきたいと思います。

ショック・ドクトリンとは

シカゴ学派の長、ミルトン・フリードマンは、自由放任資本主義推進運動の教祖的存在で、過剰な流動性を持つ今日のグローバル経済の教科書を書いた功績で知られている。

フリードマンの信奉者には、ここ数台の米大統領から英首相、露の新興財閥、波蘭の財務大臣、第三世界の独裁者たち、中国共産党書記長、IMF理事、FRBの過去3人の議長たちが連綿と連なっている。

フリードマンはその熱心な追随者たちとともに過去30年以上にわたってある戦略を繰り広げてきた。それは、戦争や災害、テロなどの深刻な危機が到来するのを待ち受けては、市民がまだそのショックにたじろいている間に、民営化、規制緩和、社会支出の大幅削減という三点セットの「改革」を一気に定着してさせてしまおうという戦略だ。

私はそれを「ショック・ドクトリン」、すなわち衝撃的出来事を巧妙に利用する政策だと理解するに至った。

ショックの始まり

大規模なショックあるいは危機をいかに利用すべきか。フリードマンが最初にそれを学んだのは、彼がチリの独裁者であるアウグスト・ピノチェト陸軍司令官の経済顧問を務めた1970年代半ばのことだった。

ピノチェトによる暴力的な軍事クーデーターの直後、チリ国民はショック状態に投げ込まれ、国内も超インフレーションに見舞われて大混乱をきたした。フリードマンはピノチェトに対し、減税、自由貿易、民営化、福祉・医療・教育などの社会支出の削減、規制緩和といった経済政策の転換を矢継ぎ早に強行するようにアドバイスした。ピノチェトはフリードマンらシカゴ学派の支持を忠実に守った結果、翌年、チリ経済は15%縮小し、アジェンデ政権下で3%であった失業率は20%にまで跳ね上がった。1974年には、インフレ率はアジェンデ政権下での最高の二倍にあたる375%に達した。

フリードマンは、意表をついた経済転換をスピーディーかつ広範囲に観光すれば、人々にも「変化の適応」という心理的反応が生じるだろうと予想した。苦痛に満ちたこの戦術を、フリードマンは経済的「ショック療法」と名付けた。こうしたフリードマンの経済的ショック療法に加え、ピノチェトは彼独自のショック療法も採用した。資本主義的変革に楯突く恐れのある人々の身体に、凄まじい暴力が加えられるという形のショック療法である。

多くのラテンアメリカ人は、何千万者国民を貧困に追いやる経済的ショック療法と、ピノチェト路線に反対する数十万の人々への拷問の横行が、表裏一体の関係にあると考えていた。

ショック療法が、富裕層をさらに富ませ、中間層以下を壊滅させるだけだと気付いたピノチェトは、1980年初頭、企業を次々と国営化し、民営化せずに守ったコデルコ(輸出の85%を占める鉱山会社)の収入源を頼りに、政府、企業、労働組合の三つの権力組織が協力する国家に発展させた

しかし、自由市場経済の信奉者たちは、チリのこうした捲土重来を、フリードマン主義の成功の証であるとして今日もなお祭り上げている。

サッチャリズム

サッチャー英首相はチリ経済の「驚異的な成功」を熟知しており、「多くの教訓を学ぶことのできる特筆すべき経済改革の成功例」だと述べている。しかし、シカゴ学派のフリードリヒ・ハイエクからチリを見習ってショック療法を取り入れるよう勧められた時、最初は全く乗り気でなかった

当初、サッチャーはイギリス版フリードマン主義を実行しようと企んでいた。その要が公営住宅であった。サッチャーは国家は住宅市場に介入するべきで無いという思想的根拠から、公営住宅に反対していた。公営住宅の市民の大部分は、自分たちの経済的利益につながらないという理由で保守党には投票しない人たちだが、もしその人々を市場に参入させれば、富の再分配に反対する富裕層の利害を理解するようになるとサッチャーは確信していた。

そこでサッチャーは公営住宅の住民が、安い価格で住宅を購入できるようにする一方で、住宅を購入できない住民には家賃を二倍にした。まさに分断統治政策そのものであったが、新たに住宅を購入した人々の半分以上が保守政党支持に変化した。一方で、賃貸入居者はサッチャー不支持で一貫していたが、目に見える形でホームレスは増加した。

その後、1982年には失業者は倍増し、インフレ率も上昇し、イギリスで最も強力な労働組合の一つである炭鉱労組との対決にも敗れ、サッチャーの支持率は25%にまで落ちた。政権支持率も18%にまで落ち、総選挙が迫る中、保守党は大衆民営化と労働組合解体という野心的な目標は失敗に終わると思われた。

この危機を救ったのがアルゼンチン軍のフォークランド諸島の侵攻であった。この時点まで、サッチャーはフォークランド諸島が政府財政にとってお荷物であるとして補助金をカットし、周辺を警備する武装船を含む海軍予算も大幅に削減していた。当然、アルゼンチン政府はイギリスが同諸島を手放す兆しだとみなしていた。しかし、サッチャーはこの侵攻が支持を回復する好機と見て、国連決議を無視し、制裁や交渉など見向きもせず、戦闘態勢に入った

サッチャーは自らの政治生命をかけて戦い、目覚しい成功を遂げた。イギリスはフォークランド紛争勝利後、戦争の英雄に祭り上げられ、サッチャーの支持率は紛争前の25%から59%に急上昇し、翌年の選挙での大勝利に道を開いた。

この人気を利用し、サッチャーは炭鉱労組との対立を対アルゼンチン紛争の延長と位置付け、「内なる敵との戦い」とみなした。サッチャーは国家の総力をあげてストライキの鎮圧にかかり、数千人の負傷者を出した。1985年、労働者たちは生活の逼迫から、もはやストを続行できなくなり、966人の労働者を解雇するという形で、サッチャーはこの戦争にも勝利を収めた。最も強力な労組の敗北は、他のもっと弱い組合が抵抗を諦めさせることにつながった。

サッチャーは、民主主義国家であっても、十分に大きな政治的危機を利用することさえできれば、それなりのショック療法が実施できることを示した。

アジア略奪

1990年初頭、自由貿易推進派が論争の相手を説得するのに持ち出すのは、決まって「アジアの虎」の成功例だった。これらのアジア諸国が飛躍的な経済成長を遂げたのは門戸を広く開け、規制なきグローバリゼーションに参加したからだ、と彼らは主張した。しかし、急激な成長は確かであるが、その理由が自由貿易にあるというのは作り話であり、事実でない

現に、マレーシア、韓国、タイの各国は保護主義政策が強く、外国資本が土地や国内企業を買収するのを禁じていた。また、国家の役割を重視し、エネルギーや運輸といった公共部門は民営化することもなかった。さらに日本や欧米からの輸入も少なからず規制し、国内市場の構築を促進した。

こうした状況は、欧米や日本の投資銀行や多国籍企業から不興を買った。彼らは拡大するアジア市場に、自社製品を売るためのアクセスを手に入れたかった。

90年代半ば、アジア諸国政府はIMFおよび新たに設立されたWTOから圧力を受け、国内企業を外資の買収から守り、主要国営企業の民営化を禁止する法律を維持する代わりに、金融部門の規制を解除し、株式や債券などの投資と為替取引が自由に行われるようになった

1997年にアジアから短期資金が大量に流出したのは、欧米先進諸国からの圧力によって合法化されたこの種の投機的投資の直接的結果に他ならない

しかし、IMFはこの危機を、アジア市場を保護している残りの規制を全て取りはらうチャンスだと捉えた。アジア諸国では記録的な数の自殺者が出ていたにも関わらず、IMFは数百億ドルの融資を行う代わりに、公共部門の労働者の大量解雇につながる予算の大幅削減を要求した。

こうして「アジアの虎」諸国から古いやり方や慣習を一掃した後、シカゴ方式による国家の再生が図られた。期間サービス事業の民営化、中央銀行の独立化、労働市場の”柔軟化”、社会支出の削減、そして完全な自由貿易の実現である。

勿論アジア諸国民からの反発はあったが、例えばタイでは四件の緊急命令という形で国会を通過させ、韓国は大統領がIMFの条件に従わない限り、融資を行わないとした。結局、国を事実上の人質に取ったIMFが勝利を手にし、韓国は書面でIMFを支持することを誓った。

こうしたIMFのご都合主義がアジアにもたらした人的損害は、ILOの調べによれば、この時期に失業したものは2400万人という驚異的な数におよび、インドネシアの失業率は4%から12%へと跳ね上がったとされる。タイでは一ヶ月で6万人が失業した。韓国では毎月30万人もの労働者が解雇され、1996年には各国の国民の63.7%を占めていた中産階級は1999年には38.4%へと激減した。

一方で、多国籍企業は、価格の落ちたアジアの民間企業を次々に買収し、また、民営化を通じて各国の公共事業を手中にし、大儲けしたのであった

ショックからの覚醒

シカゴ学派のイデオロギーが勝利したところでは、どこも判で押したように貧富の格差が拡大した。

中国では目覚しい経済発展にも関わらず、この20年で都市部の住人と農村部の8億人の貧困層との所得格差は倍増し、アルゼンチンでは1970年に上位10%の富裕層が貧困層の十二倍の所得を得ていたのに対し、2002年にはその比率が43倍に拡大した。なかでもアメリカの格差拡大は著しく、レーガン大統領がフリードマン流の経済政策を導入した1980年、企業CEOの平均年収は一般労働者の43倍だったが、2005年には411倍に跳ね上がった。トリクルダウン効果など起きなかったのである。

現在、こうしたショック療法の実験場となった国々では逆流現象が起き始めている。なんの説明もなく頭が真っ白の時は、混乱を自らの目的のために利用しようという企みに対して極めて無防備な状況になる。だが一旦なんらかの説明が提示され、衝撃的事件を大局的に把握できれば、人は方向性を取り戻し、つじつまのあった世界が再び姿を現すのだ

ショック・ドクトリンは歴史、文化、そして記憶まで、これまで十分なほどに消してきた。これらの再生のためには、白紙からの創造ではなく、残された瓦礫や廃品から再生産していくことが必要であろう

これらの運動は原理主義の合間を縫って前へ前へと進んでいく。地域社会に根を張り、ひたすら実質的な改革に取り組むという意味においてのみラディカルなこれらの人々は、自らを単なる修繕屋とみなし、手に入るものを使って地域社会を手直しし、強化し、平等で住みやすい場所へと作り変えている。そして何にも増して、自らの回復力の増強を図っている__来るべきショック備えて

あとがき

ショック・ドクトリンは自由化路線を掲げた政治家が選挙で選ばれるという民主的手続きを経て、自由市場政策が導入されたケースもありますが、これらの政策が全面展開するには独裁至上主義的状況が必要になります。

日本の場合はどうでしょうか。日本は平成の時代以降、バブル崩壊、アジア通貨危機、阪神淡路大震災、東日本大震災、原発事故、あるいは中国の台頭や少子高齢化、格差拡大、一極集中、そして、これはただの杞憂に過ぎませんが政府債務の増大などの危機に直面することになりました。

その中で、例えば、小泉政権下においては郵政民営化が実行されました。この政策の支持層と、この政策によって利益を得る層が一致しているとは考え難いですが、この改革は民主的な手続きを経たものだと考えてよいでしょう。

一方、現在の安倍政権下で実施されてきた政策や法案の数々はどうでしょうか。入管法改正、水道民営化、種子法廃止、国有林法改正、漁業法改正、農協解体、カジノ法の成立、電力自由化、TPP、日米FTA、GPIF改革、大学入試改革、消費増税と法人税の引き下げなど、おおよそ民主的な支持を経て実施されたものとは言い難いです。あるいは、これらの政策や法案が通っていることすら認知していない国民も少なくないでしょう。

というのも、日本が新自由主義の下で実施してきた構造改革と行政改革によって官邸主導の政治および資本友好政治が生み出された結果、かつての自民党に存在した派閥や、部会・政調審議会・総務会の政策決定プロセスなどが機能不全に陥り、地方政府や経団連以外の業界団体などの中間団体の声が反映されづらいものとなっているからです。

では、今の政権下で起きていることは独裁的なものだと言うことができるでしょうか。これは判断が難しいところですが、構造改革と行政改革は実際に国民の支持によってなされたところも大きいので、独裁的な決定が可能となった現状も民主的な手続きによって求められたと考える方が適切だと思われます。

日本は今、消費増税によるショックに加えて、コロナ不況の只中にあります。こうした危機の中でも、新自由主義者たちは虎視眈々と改革の機会を伺っています。然らば、私たちは冷静な民主的手続きをもって、彼らや彼らに組みする者たちとは反対の方向へ転換しなければならないのだと思います。

最終的に、この30年間で失われた歴史や文化、あるいは自信を取り戻すためには、それらの破壊にかけた以上の時間と、わずかに残ったそれらを基礎に再構築を図るという活力が必要になります。その第一歩として、ショック・ドクトリンのメカニズムを多くの人々が深く理解し、これ以上、社会に驚愕と混乱がもたらされないことを願うばかりです。

では。

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