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「大学改革」という病

どうも、犬井です。

今回紹介する図書は、山口裕之先生の著作「「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する」(2017)です。本書では、昨今推し進められる「大学改革」を、歴史や統計データなど参照して多面的に論じており、大学で実際に教鞭を執る筆者の視点から、説得力を持って論じています。ここでは、大学改革が「いつから」「誰によって」「なぜ」「どのように」行われているかを中心に取り上げたいと思います。では、以下で本の内容を書き綴っていきたいと思います。

国立大学法人化

従来、日本国憲法第23条が保証する「学問の自由」の主体は、各学問分野の専門家である教員であり、専門家集団としての教授会であると考えられてきた。研究業績を正当に評価できるのは、その分野の専門家だけであるから、教員の新規採用や昇進などの人事権も教授会であると考えられてきた。各国立大学の学長も「大学の経営者・支配者」ではなく、お互い対等な専門家集団の代表として、教員の選挙で選ばれるのが通常であった。

しかし、1990年代後半、日本経済の不調と政府の財政難のため、大学や学問研究についても「選択と集中」が叫ばれ始めた。従来の教授会はそうした選択と集中に対する「抵抗勢力」とみなされたため、その権限を限定することが、「新人教育を大学に負担させたい財界」「予算を削減したい政府(=財務省)」の意図することとなった。

そして、2004年に「国立大学の独立行政法人化」が行われ、これにより「大学の財政上の責任が政府から切り離される」こととなった。

学校教育法第5条では「学校の設置者は、(中略)その学校の経費を負担する」とされている。従来の国立大学は、政府が設置者であったから、政府が経費を負担する必要があったが、大学の設置者を各国立大学法人とすれば、政府が予算を絞った結果、大学が潰れても、大学の責任とされた。

その結果、政府は大学の運営に関わる経費の一部を交付金として補助するだけとなり、その交付金は独立化以降、毎年1%が減らされることとなった

学校教育法改正

財界や政府は、国立大学法人化によって大学を「学長をトップとする企業」とすれば、「ガバナンス」や「競争主義」を大学運営に持ち込めると考えていた。

しかし、思うような「改革」が進まなかったため、2014年に学校教育法が改正され、教授会の権限を法的に限定することまでが行われた。

これにより、大学に関わる重要な事項全般について審議するものとされていた教授会は、学長や学部長の諮問機関とされ、審議事項も教育と研究に関わることに限定された。

今まで対等な関係を築いていた教員たちが、国立大学法人化と学校教育法改正によって、明確に「学長」と「学部長」をトップとする組織へと編成されていったのである。

教育や研究への政府の介入

大学改革では「トップダウンか自治か」という運営形態だけが問題ではない。2010年代に入ってからは、教育や研究の具体的な方向性や内容まで踏み込んだ指示を文科省が出し、大学側に続行を強要する形で性急に進められている。

特に、2012年12月に第二次安倍内閣が成立して以降、「改革」の強引さと性急さは加速している。皮肉なことに、国立大学法人化の際に謳われた「大学の自主性や自律性」は、文科省が提示するいくつかの目標の選択や、達成の手段の工夫といった点にのみ発揮されている。

グローバル化時代の改革

今まで見てきたような改革は、1980年代以降のサッチャー改革に典型的に見られるような、いわゆる「新自由主義」に基づく改革であった。

サッチャー改革は、同時期のアメリカのレーガン政権にも影響を与え、さらには、アメリカ的な大学のあり方が世界各国に輸出されるようになる。今行われている大学改革は「大学のアメリカ化」というのが実態である。

「小さな政府」を追求し、市場への参加障壁となる規制を緩和する新自由主義のもとでは、教育目的は経済成長あるいは国際競争力の確保に資するという点に一元化されるため、政府による統制の強化が行われる。

「大学のアメリカ化」を無批判に推奨してきたツケは、10年、20年後にあらゆる弊害を伴って顕在化していくだろう。

大学と民主主義

「学問の自由」や「大学の自治」という理念を振りかざしても、「新自由主義」的改革を棄却することはできない。したがって、大学人は改革の問題を十分に認識した上で、現代における高等教育機関の本質と機能を提示しなくてはならない。

その時強調すべきは、民主主義的な市民社会を支えるという機能である。

民主主義とは、すべての国民が賢くあらねばならないとする無茶苦茶を要求する制度である。

どのようなことをについてであれ「考える」ためには、まず関係する事実をよく調べ、よく知らなくてはならない。そして問題を可能な限り多面的かつ具体的に考察し、論理的に整合的な議論をする必要がある。さらに意見が対立する相手とは話し合いを重ね、お互い納得できる地点を探していくこと、あるいはそうした地点を共に作り上げていくことが大切である。

大学はこうした学びと対話の場であり、学生はこうした対話による意見構築と合意構成の技法を学ぶことができる

そこに大学の価値の本質があるのではないか。

あとがき

本書では他にも「大学の歴史」や、「大学入試制度」、「日本的経営と大学の関係」についてなど、鋭い文書力を通して書かれています。大学に身を置く者の一人として、「大学のあり方」や「学生としての務め」など色々考えさせられました。余談ですが、香港のデモを見ていると、若者の力というものにある種、畏怖のようなものを感じます(私も若者ですが)。他国のデモにおいても、中心的な役割を果たすのはやはり若い力であることが多いです。それに対し、日本の若者はどうでしょうか。どこか活力に欠けると感じるのは多くの人が思うところではないでしょうか。ただ、私はそれが若い人たちだけの責任だとは思いません(私自身が若者ですので)。上記のような新自由主義的な改革が、学生の表現の場を奪い、活力を削ぐことの片棒を担いでいる気がしてならないのです。今こそ学生と「対話」し、意見を共有する態度が求められるのはないでしょうか。

では。

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