【小説】「ヒーリング•サークル」 第5章 二回目のロミロミ
明日俺が病院連れて行こうか、と陽司は言った。夫が不意に寝室のドアを開けて声をかけてきたので、私はハッとした。今日、ついに仕事を休んでしまった。十二月、寒くなってから朝鬱々として起き上がれないことが増えた。それでも職場に電話をして時間休をとって遅れて出社していたが、今日はそれも断念した。始業時刻ギリギリに会社に連絡して、一日休みをもらったが、電話をとった同じ課の事務員も呆れていた。その対応にも落ち込んで、ベッドでうずくまっていたら、陽司が寝室のドアを開けたのだった。今日は金曜で、明日土曜日の午前診に付き添ってくれるという申し出だった。
「うん、お願いしようかな。ありがとう」
病院は、心療内科のことを指しているに違いなかった。陽司は私の病歴を知っているから、心療内科に行ってみたら、と私が不調に陥ってから何度もすすめられていた。
エリさんのサロンに行きたいと思いながら、体調が悪過ぎて行けずにいた。この間夏実さんにカフェで会った時に言われた鏡の現象のことが、ずっと自分の心に引っかかっていた。遠回しに「全部私が悪い」と言われたような気がして、あれからさらに身体が重く、塞ぎ込むようになってしまったのだった。
とにかく、今は明日夫に頼って病院に行ってみるしかなかった。
人気だというそのクリニックは、土曜日ということもあってさらに混んでいるようだった。待合室に人がぎっしりと座っている。座りきれなくて立って待っている人すらいる。物腰の柔らかい受付の女性に、多分二時間はお待ちいただくと思います、その間外に出て行かれても構いませんが十時半までにはお戻りください、と告げられた。仕方なく陽司と近くの喫茶店で時間を潰して、十時半に戻ってきたが、そこから診察室に呼ばれるまでさらに一時間待った。
「お待たせしました、こんにちは。」
診察室に入ると、もう七十歳近そうな白髪の医師は、長身で細身の体をこちらに向けて迎えてくれた。飄々としているが受け答えから、優しそうな先生だと感じた。今の心身の状態、職場の状況、病歴などを詳しく伝える。医師は私が話したことをこまめにカルテに書き込んでいく。
「仕事は辞められないの?」
と、彼は突然核心をつくような質問をした。今の職場を辞める、ということを考えていなかった私が止まっていると、隣に座って聞いていた陽司が、私と医師との間に割り込むように体を乗り出して言った。
「僕がまだ今年転職したばかりで仕事に慣れていなくて、だから妻も仕事を辞めにくいんです。」
医師が、ちろりと顔を斜めにして陽司を見たが、何も言わなかった。転職したばかり。それなら、私だって今の会社に転職してまだ二年目だった。
結局、薬を三種類処方された。睡眠薬もある。これで眠れない夜もひとまず安心だ、と私はほっとした。
帰りの車の中で、陽司とはあまり話をしなかった。仕事を辞めるという選択肢があることに今日気付いたけれど、でも私は仕事を辞められないのだな、と思いながら助手席で窓の外を眺めていた。エリさんに電話しよう、と、家の駐車場に着いた頃にはもう決めていた。
二回目のロミロミの後も、またコーヒーを飲みながらエリさんに話を聞いてもらった。心療内科で薬を処方してもらったことを話すと、エリさんは言った。
「私もね、昔は病院の薬を飲んでいたのよ。」
私の空いたマグカップにコーヒーを注いでくれながら、彼女は続けた。
「私はね、躁鬱病だと診断されたの。最初は、お医者さんの言うことを聞いて真面目にお薬を飲んでいたわ。でもね、ある日もうやめよう、って思ったの。お薬を手放そうって。その日から、病院の帰りに、もらったお薬を駅のトイレに捨ててくるようになったの。」
そう言ってエリさんは自分のマグカップのコーヒーをゴクっと飲み込んだ。
「だって、誰にだって気分の浮き沈みはあるじゃない。普通のことよ。病気なんかじゃないわ。」
エリさんは私の目を静かに見つめた。エリさんの少し茶色い瞳。真っ直ぐな深い瞳だと思った。
「でも、飲んでいないと不安で。夜も眠れないから、お薬を飲んでしまうんです。」
「あなたには、あなたを守ってくれるものが必要ね。クリスタルとかいいかも。」
エリさんは、スマートフォンでインターネット通販のページを見せてくれた。ペンダントトップになる、金具がついたクリアカラーのクリスタル。多面体にカットされており、先端は尖っていて、全体的に雫型をしている。三千円くらいの手頃なものだ。
「手持ちの鎖を通して、ペンダントにしていつも身につけていれば、あなたを守ってくれるわ。」
彼女は微笑んで私を見た。私は教えてもらった商品のページを自分のスマートフォンでも開いてブックマークした。家に鎖がないから買わないといけないな、と思いながら。
サロンを出た時には、夕日はもうほぼ山の向こうに沈みかけて、空は薄い群青色に染まっていた。欠片ほど見えて今日最後の輝きを放っている太陽を見つめながら、薬をやめることについて考えていた。私の今の落ち込みだって、考えたら人間ならば自然に生まれる感情の一つだ、と思った。自然の現象なのに、お薬をわざわざ飲むことはないのかもしれない。クリスタルがあれば、外部からの攻撃からも私の体を守ってくれるだろう。
一時間ほど車を運転して家に戻った。今日は日曜で、夫は出かけていてまだ帰っていなかった。キッチンに直行して、食器棚の引き出しを開ける。心療内科の薬が入った紙袋を、中が見えないようさらに別の紙袋に入れて、ゴミ箱に捨てた。
捨てるとなんだか気持ちがすっきりした。そして自分は病気じゃない、今はただ気持ちが沈んでいるだけ、という気持ちが表れてきて、その日の夜は睡眠薬なしでも眠ることができたのだった。
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