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短歌五十音「ひ」東直子『十階』

短歌五十音シリーズ、「ひ」の歌人として取り上げる東直子氏は、1963年広島県生まれ。1996年に第7回歌壇賞を受賞し、歌集には『春原さんのリコーダー』『青卵』などがある。短歌だけでなく詩や小説、エッセイ、評論、イラストレーションなどの分野で幅広く活躍。書肆侃々房の新鋭短歌シリーズの監修も担当している。

『十階』は、ふらんす堂の「短歌日記」シリーズの一冊として出版されたもの。2007年1月1日から12月31日まで、ふらんす堂のホームページで毎日掲載されたその日の短文と短歌がまとめられている。
筆者はこの歌集をこれまで繰り返し読んできたが、今回この文章を書くにあたって、再度注意深く読み、気になった歌を並べていった。並べた歌を読み返しているうちに、一年という時間のなかで、人間は一瞬一瞬を生きながら、記憶を呼び戻したり未来を思ったりして、常に揺らいでいるのかもしれないと思った。

過去と記憶についての歌

この歌集を読んで心に残った歌には、過ぎ去った時間について詠ったものが多い。過去の記憶についての歌をまとめて引く。歌の後ろに日付を付した。

あれが最後だったんだなあと思うのか光る窓へと手をふっている (1/21)
棒立ちになって見上げし桜花 わすれることはうつくしいこと (4/4)
振り返るとあんなに遠い場所にいる小さな獣あたしの獣 (5/11)
白い菊の海に一本入れました 祖父は今でも座り続ける (9/25)
あと少しのぼれば空が見えますよ抱きしめているもの捨てなさい (9/30)
血脈のような細い川に添いぽつりと灯る「忘れてもいい」 (11/25)

1首目、夜に暗い屋外から電灯のついている窓を見上げて、中にいる人に手を振ったのだろうか。もう会わないとは思わないで別れた日の記憶。時間がたって、あああの時が最後だったのだ、とゆっくりと気づくという経験は、多くの人が持っているだろう。
2首目、満開の桜に、呆然と見惚れる。その美しさの前に何かを悲しんでいた気持ちも忘れてしまう、という歌と読んだ。
3首目、この5/11の短文によると、いつか目の前をヘビが横切った、とあるので、「獣」はこのヘビを指すのだろう。文章の最後に「あのヘビは、今も生きているのだろうか」とある。遠い昔に出会った蛇の命にも思いを馳せる、主体の生命への愛情を感じる。
4首目、この日の短文には、歌人の祖父の埋葬の形が屈葬であったという記憶が記されている。埋葬の時、故人の体の周りを菊の花で埋めたのだろうか。下の句、過去から引き続き、祖父は現在進行形で座っている。
5首目、この日の短文をそのまま引く。

過ぎ去った時間を思い出している時間もまた、過ぎ去っていく。

下の句で主体が相手に「抱きしめているもの」を捨てよと呼びかけている。この抱きしめているものとはおそらく過去の時間や過去の出来事のこと、その時に抱いた思いのことだろう。上の句の「空」とは過去から解放された未来の比喩か。未来にたどり着くために、過去という名の錘を捨てよ、という歌だと読んだ。呼びかけている相手は、主体自身なのかもしれない。
6首目もまた過去を手放すことについての歌である。散歩している時などに、ふと一つの思いに行き着くことがある。「忘れてもいい」とは主体自身が記憶を手放すことを自分に許すこと。自然に記憶が抜け落ちていくのを待つのではなく、積極的に忘れる選択をしようとすることに、その記憶が持つ重さを思った。

未来を思う歌

この歌集がさびしいイメージの歌集とならないのは、過去や失ったものに関する歌と同じくらい、未来志向の歌も多く詠まれているからだと思う。

誰がなにを言ったとしても春風のざっくばらんな私を生きる (3/16)
十年後それぞれに老いそれぞれに生きているのか祝祭つづく (6/16)
末路にはなにがあろうと小雨ふる街はきれいだ皆湯気立てて (11/11)
結晶を水にとかしてふたたびの旅がはじまる やりなおせるね (12/22)

1首目、色んな人にとやかく言われようとも、自分はさっぱりと率直に生きていくという、主体の爽やかな決意。
2首目、十年もたてば人は老い、それぞれの事情を抱えて生きているだろう。それでもなお生の営みを祝祭と呼ぶポジティブさ。
3首目、この先に何が起こるかはわからない。ただ、今いるこの場所と人々の美しさを寿ぐ。
4首目、短文によればこの結晶は塩の粒のこと。旅という語から塩水、海、循環のイメージが浮かんだ。結句「やりなおせるね」に、過去を抱いたまま新たに生き直そう、と主体が相手に呼びかけているような印象を持った。

『十階』を読んでいると、一年とは過去と現在、未来の間を移動している時間なのだと思えてくる。
再読する度、12月31日の短歌に、ベクトルを未来に向けようという意思を感じ、心を照らされたような気持ちになる。

あたらしい手帖に記す約束の時間と場所とあなたのことば (12/31)

次回予告

「短歌五十音」では、ぽっぷこーんじぇる、中森温泉、初夏みどり、桜庭紀子の4人のメンバーが週替りで、50音順に1人の歌人、1冊の歌集を紹介していきます。

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お読みいただきありがとうございました。
本稿が、みなさまと歌人の出会いの場になれることを願っております。

次回はぽっぷこーんじぇるさんが藤井貞和『うた ゆくりなく夏姿するきみは去り』を紹介します。お楽しみに!

短歌五十音メンバー

ぽっぷこーんじぇる
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中森温泉
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初夏みどり
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