感情が無くなれば良いのに?
あまり信じてもらえないかもしれないが、私がしっかりとした「感情」を持ったのは、ほんの最近のことである。
長いこと、私はしきりに「感情が無くなれば良いのに」なんて思っていた。
自分自身の為にも、感情なんてあってはならないと信じていたのだ。
きっかけは、10代の頃。
家庭不和、いじめ、仲良かった友達の裏切り……
不安定な思春期の心に、これらは嵐のように激しく襲い掛かってきた。
私には逃げ場が無かった。
そして、もちろん現実を変えることも出来ない。
苦しみもがくしかない、そんな毎日に耐えられなくて、どうせ環境を選べられないのなら、せめて何事にも動じない、無感情な心になりたいと願ったのだ。
そうすれば、これ以上傷つくこともないだろうと、そう思った。
それから、私は心に蓋をし、気持ちを押し殺して生きることにした。
最初は上手くいったつもりだ。
反応しない、動揺しない、ごちゃごちゃ考えない、何も気にかけない……
けど、長続きはしなかった。
完全に感情を無くすことは不可能だったのだ。
悔しいことに、
人の心は、随時何かを感じるように出来ていた。
必死に傷つくまいと気持ちを押さえても、悲しみ、辛さ、寂しさは残ったまま。
ちっとも楽になんてならなかった。
実際、私は確かにある日とうとう愛情も、幸せも何も感じることが出来なくなっていた。
が、今思えば、それは単に幸せになるのが怖かっただけ。
そうーー
感情を押し殺そうとしていたつもりが、
実は「幸せ」になるのを避けていただけだったのだ。
日々のささやかな幸せをも無情に奪われていく、
あの瞬間が嫌で嫌で。
とてつもなく怖くて怖くて。
そんな恐ろしい体験をするぐらいなら、いっそのこと最初からずっと苦しみ続けていた方がマシ、そう思っていたのだ。
結局、努力しても苦しみは日に日に大きくなった。
感情も消せず、壊れたのは感情の正常機能だけだった。
気持ちは、常に高まったり薄れたりしている。
何かの気持ちが発生することだけでなく、それが消えてゆけることも、健全な感情機能の一つ、感情のあるべき姿とも言える。
そして、ポジティブ・ネガティブな気持ちは、シーソーのようで、
一方が生まれれば、もう一方は無くなるし、
一方が激しくなれば、もう一方はそれに伴って衰弱していく。
よって、幸せを抑えることは苦しみを増進しているようなもの。
それで心が軽くなるなんてことは、決して無い。
確かに、幸せであればある程、それが壊れた際の苦しみはより重くなる。
けど、辛ければ辛い程、そこから救われた後の安らぎの味わいも格別だ。
だから、もし本当に幸せに、楽になりたいのなら、
十分に感情を機能させ、
幸せも、苦しみも、
どの気持ちも大事にしなければならない。
これを悟ってから、大変な時は「乗り越えれば幸せが待っている」と考えながら頑張れるようになった。
そう思う度に勇気が湧き、たくさんのことを克服出来、私はどんどん強くなれた。
感情が機能するから、悲しみが和らいだ時の、あの暖かさが分かる。
感情が機能するから、辛かった後にくる幸せが大きくなる。
私は、心の動きの一つ一つを味わいながら生きていくことにした。
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