闇の向こう側に何があるのか?
忘れられない、あの夏の日のこと ①
皆さんは、一年でいつの季節が好きですか?
ボクは夏がいちばん好きだったんです。寒がりなので冬は苦手なこともあり、秋は日が暮れるのが早く淋しい気分になる。
それに比べると、そうした記憶もあるからなのか、夏は人も街も、キラキラ輝いている印象がある。しかしそれも若いうちの話で、ここのところのあまりの暑さは年齢とともにやはりしんどく、今では春がいちばん好きになった。
そんないつかの夏の日の思い出を、季節柄書き綴ってみようと思った。
と言っても、あの旅行は楽しかった、海だ、花火だ、キャンプだー!の話を書くのではない。そんなことを発表しても、白河らしからぬ、と、いつもボクの記事を読んでくださる希少なクリエイターさんたちも、誰も期待しないだろう。
今回書く話は、ちょっと暗いし重い。楽しいことだけが夏の日の思い出とは限らないのだ。ボクにとっては、今も胸の奥に鉛のような重さとして残っている出来事で、身内の話でもあり、正直発表して良いのか迷った。けれど時間も経過したこともあり、読んでいただいた方たちと、そんなボクの思い出を共有することで、人生のひとつの区切りとしたかった。
記録によれば、それは2002年8月のことだ。
お盆の夏休みを直前に控えたその日の朝、出勤前にトイレに入っていた時に自宅の電話が鳴った。
朝にかかってくる電話は、記憶上あまり良い知らせがない。何かしら緊急的なことが多いから。その時も一抹の不安を覚えたが、果たして電話をとった母の驚いた声がしている。
間もなくトイレから出ると、母は受話器を握ったまま相手と話ながら、ボクに片手のジェスチャーで事のあらましを伝えていた。それは、
”Y子ちゃん、首つり、子供二人道連れ”
と、はっきりわかるものだった。
それを知った時の気持ちの動揺ぶりを、ボクは今でも覚えている。
電話の相手はどうもボクの父の姉で、静岡にいる叔母らしい。Y子ちゃんはその孫にあたる。出勤に時間がなく、母はまだ話込んでいたから、ボクはそのまま家を出ざるをえなかった。
どういうことなのだろう…?Y子ちゃんに何があったというのか。思考が動転したまま、会社へ向かうしかなかった。
Y子ちゃんというのは、ボクの親類にあたる、確か一つか二つ年齢違いの女性である。彼女の郷里は叔母の住む西伊豆の町だ。
小学生の夏休みに遊びに行った時はじめて面会したが、彼女はとても性格の強い女の子で、何かと口うるさく、子供心に正直ボクは苦手だった。
そんな彼女も小学生の高学年になると、まるで真逆の優等生に変身していた。
ボクが中学一年生の時だったと思う。久しぶりに、夏休みを利用して叔母の家に遊びに行くことになった。父親がもう一人のいとこと、連れて行ってくれることになったのだ。叔母からボクらが行くことを聞いたようで、夏を前にした日、Y子ちゃんから一通の手紙が届いた。そこには、ボクらが来ることを楽しみにしている、ということと、これを機にボクと文通したい、と書いてあった。
文通、今の若い人たちには絶滅したやり方だろう。当時は携帯電話なんて当然ない時代だったから、電話以外ではこうしたことは普通だった。
しかし、以前に遊びに行った以外、彼女と顔を合わせる機会もなかったので驚いたし、少し照れくさくもあったが、何だか嬉しさもあり、ボクはその誘いを了解した。
断っておくが、もちろん彼女は男子より女子特有のおませな部分があったと思うし、兄がいないから、ボクをそんな風に見ていただけだったと思う。ボクにも恋愛感情は一切なかった。
それから、彼女との文通が始まった。お互いとりとめのない内容だったが、一週間に一回くらいの割合でやりとりしているのは楽しかった。
やがて夏休みになり、ボクは西伊豆の叔母の家で、彼女と再会した。
叔母の家は小高い丘の上にあり、坂道を下っていくと、周囲を深い緑の山に囲まれた海に出る。風光明媚とはこのことで、その景色の素晴らしさは、今でもボクの気持ちを高揚させるものだ。
下の海で泳ぎ、水中メガネで覗いた海の中は、光るクラゲが群生し水族館のようだった。
とりとめもないけれど、彼女との楽しい会話。夜の花火。シンとした闇の中を、網戸にした窓の外から聞こえてくる波の音。
普段の都会暮らしの中で、あまりに違う環境が、心地良かった。
この時の感動があり、同じ西伊豆の松崎を舞台にした吉本ばななの小説「TUGUMI」は、ボクの永遠のベストセラーになった。そこで描かれる風景描写が、叔母のいる町とも似ていて、読み返すたびに、ボクをあの日の少年に連れ戻してくれる。
さて、そんな夏休みが終わった訳だが、その後も彼女との文通はボクが高校三年になるまで続いた。環境も色々変わるもので、やがてボクは同級生とつるんでいるようになり、親と一緒に出掛けることがなくなったから、西伊豆への叔母の家へ訪れることもなくなった。
Y子ちゃんは高校を卒業し、専門学校に通うため、東京へ上京した。
そんなある日、家に彼女から電話があった。話の内容から、何だか胡散臭い集まりだったかイベントだったかに、参加してほしいという内容だったと思う。どうも変な誘いで、その内容に興味もなかったから、曖昧に断り続けていた。今ならもう少し訳を聞いてあげられたかもしれないが、当時ビデオ屋でアルバイトをしながら朝から夜までダメな生活を送っていたボクには、彼女の電話をまともに聞いてあげられる気持ちもなかった。
それから数年して父が死んだ時には妹と一緒に自宅に駆けつけてくれて、納骨式に参列してくれた。その時もお互い電話のことには触れなかった。
やがて、千葉に住んでいた彼女が結婚をしたという話を聞いていた頃、一通のハガキが届いた。Y子ちゃんからの直筆で、そこには、あの誘いの電話をしたことへの詫びと、それがやはり詐欺的な事象で自分がヒドイ目に合ったこと、結婚した旦那の郷里の実家へ移住すること、そんな内容が書かれていて、一番はボクへの迷惑を気にしており、それが心に未だに引っかかっている、ということらしかった。今にして思えば、彼女はメンタルにとても繊細な部分があったのかもしれない。
ボクはほとんど気にしていなかったので、彼女を安心させるため、そのことをメールで伝え、別天地での新生活にエールを送った。すぐに彼女から返信があり、安心できた、善き嫁として頑張る、とあった。これがY子ちゃんとの最後の会話になった。
彼女はその伝達通り、地方の温泉地としても有名な町に移住した。そこで子供にも恵まれ、新天地で幸せに暮らしているー、その後のボクにはそれしか想像できなかった。
話は少しヨれるが、ボクは釣りが大好きである。
水木さんを敬愛しこのnoteでは自称オバケ評論家と名乗っているが、釣り、映画、音楽には相当精通している。釣りは子供のころから好きだったが、父の死後20代中盤頃から本格的にのめり込み、30代から40代は一年中釣りばかりしていて、北は青森から南は九州まで、釣り竿を担いで遠征していた。
早々に廃刊になったが、釣り雑誌に僭越ながらエッセイも連載していたし、某有名釣り雑誌では取材記事なんかも書いたりしていた。
ボクは、沖堤防の釣りが好きだ。釣りをしない人には何のこっちゃだと思うので、少し解説すると、沖堤防とは地続きではなく、海の沖合に消波ブロックとして設置されている防波堤のことで、日本にはこれが全国各地にある。釣り文化が盛んな日本では、ここを釣り場として渡船があるのだ。今では危険と判断されたりして、渡ることができなくなった沖堤防も数あるが、木更津の沖堤防は今でもボクのホームグラウンドで、先行きは木更津に移住したいとさえ思っている。
そういう訳で、色々沖堤防には全国各地通ったが、西伊豆にもそれが存在する。
よく行ったのは田子の沖堤防で、一晩泊まったこともある(大抵釣れずに後悔するハメになるが)。
そうして知ったのが、南伊豆エリアにある小さな漁港、小浦漁港と妻良(めら)漁港の沖合に点在する沖堤防だった。写真の転載ができないので、興味がある人はSNSで検索すると写真は数多くアップされているから、後半に続くボクの話の舞台としてご覧下さい。
この付近、じつは伊勢エビが釣れるのである。あまり詳しくは言えないが、夜になると本当に釣れるのである。
だからその日、2002年の8月14日も、釣り仲間のSさんと、宝ものを釣るために、朝から一昼夜、泊まりの意気込みで小浦漁港を目指すことになっていた。
そしてー、その釣行前、Y子ちゃんの信じられない話が届いたのである。
その夜、母から聞いた話では、自宅で自分の子供二人を首を絞めて死亡させ、その後自分も首を吊って死亡していたらしい。もうひと月前のことだという。
原因は何なのかー?
死亡する直前、叔母のところへY子ちゃんから、
「おばあちゃん、元気?」
という電話があったらしいが、特に悩みを言う訳でもなく、普段と変わらない様子だったようだ。
叔母は母に電話を寄越した時に原因はわかっていたかもしれないが、そういう話は一切なかったので、ボクも母も腑に落ちないだけで、ただ頭の中が混乱していた。荼毘に伏された遺骨は旦那の実家にあり、知らせを聞いた叔母たちは、遠路葬儀に出向いたようだった。
それからの数日、仕事をしていても、ボクの頭の中からY子ちゃんのことが離れない。何をしていても、胸の奥に鉛のようなものがあって、気持ちをひどく落ち込ませた。
夏休みに入り、Sさんと例の沖堤防へ釣行することにはなったが、こんな時期に、しかもお盆のさ中殺生することに、気が重くなった。しかも、行く場所は彼女が高校生まで過ごした郷里に近い。実家に顔を出すべきなのか、しかし何と言って親族と顔を合わせるのか、第一彼女の遺骨は伊豆の実家にはない。
うやむやに暗い思考を抱えたまま、早朝から沖堤防に渡った。釣り人はボクとSさんだけである。
その日も朝から暑かった。暑さ避けに貧弱なテントを持ち込んだが、中は風が通らず、入ると余計に暑い。堤防はコンクリートなので、照りつける日差しに、さながら熱したフライパンの上にいるようでツライ。そして、朝からまったく釣れないというのもツラさに拍車をかけた。アジの回遊もなく、朝から何をやっても空振りの連続なのである。
午後になると南の風が緩く吹き始めて、暑さは幾分和らいだが、相変わらず魚は釣れない。
それでも、カサゴ、シマダイなど、少しのバラついた釣果はあったので、それをビクに入れて海中に入れていた。しかし、何度目か引き上げてみると、入れていた魚が一匹もいない。ビクの底の網が破れ、すべて脱出していた。色々原因を探ってみると、ウツボ以外考えられなかった。この付近はウツボも多い。底から浮上して、魚目当てに網を食い破ったとしか考えられなかった。ついていない時は、こういうものだ。
このウツボ事件は、Y子ちゃんのことで気が沈んでいるボクの気分を、一層打ちのめした。後から知ったが、そういう自然界からの暗黒の黙示というのがあるそうだ。
こうなると、伊勢エビ釣りで気分を変えるしかない。夕方になればアジの回遊もあるかもしれない。そう期待するしかなかった。
だが、夏の夕暮れはなかなかやってこない。小さな漁港を囲む緑の小高い山から蝉の声が一帯を包囲し、海は気持ちが悪いくらいのベタ凪で、真夏のギラついた太陽が青い空にいつまでも鎮座していた。
ひたすら長い苦行とも言える時間が過ぎ、ようやく日が傾きだして、夕暮れの気配が辺りを包みはじめた。
アジの寄る潮通しのいい堤防の先端に行って、Sさんとコマセを撒き始める。しかし、ネンブツダイばかりが集まってくるだけで、アジがさっぱり寄らない。信じられない事態だった。東京湾ならまだしも、この場所であり得ないことだった。アジはどこへ行ってしまったのか。その後、いくらコマセを撒いても、ついにアジは寄らなかったのである。
すっかり宵闇の気配が堤防を包み込む中、それでも本番はこれからなのだと気持ちを仕切り直し、伊勢エビ釣りの支度にかかった。
やりはじめると、すぐに釣れたが、そう簡単な釣りでもなく、仕掛けにエビを乗せるのが上手くいかない。それにネンブツダイがエサを突つき、アタリがよくわからず、合わせるのに苦労する。普段から器用なSさんも、何匹かかけたが、思うようにはなっていなかった。
日はすっかり落ち、やがて堤防を夜が支配した。港町の灯りが遠くにチラチラと揺れて見える。相変わらずのベタ凪で、波の音も聞こえない海の静けさが、何だか不気味にさえ思えてきた。
と、ここで、思わぬサプライズが起こった。突如目の前に、巨大な花火が打ちあがったのである。知らなかったが、この日は港町の花火大会だったらしい。
小さいながらも次々と花火の大輪が夜空に咲いた。沖堤防にいるボクらは特等席である。釣りはやめて、ただ見入った。この感動は素晴らしかったが、同時に今日の夜釣りが芳しくないことを象徴する出来事だった。水中に花火の音が反響して、魚は怯えて隠れてしまうからだ。
しかし、そうでなくても、釣れない状況に変わりはないだろうと思えた。
30分ほどで花火の打ち上げは終焉を迎えた。辺りは再び夜の暗闇に包まれたが、花火の音に呼応するように山の辺りからずっと変な鳴き声が聞こえていて、花火が終わってもそれが続いた。何か、大きな鳥の鳴き声にも聞こえたが、正体は知れない。だとしたら、それほど大きな鳥とは何だろうか。
知らぬではなかったが、釣れない夜釣りほど時間が経過してくれない。ボクは不安定な気持ちで竿を垂らすしかなかった。
暗い中で、Y子ちゃんのことが、頭に浮かぶ。
彼女はなぜ死んだのかー?
あんな死に方をしなければならなかった、彼女を追い詰めたものは一体何だったのか。
叔母へ電話した時、本当は何を伝えたかったのか。
覗いてはならない闇の向こう側に、一体何を見たのだろうか。
ボクは竿を置き、ぼんやり堤防で突っ立ったまま、不気味に静まりかえったままの夜の海を見つめていた。
背後で、暗闇の中、Y子ちゃんが立っているような気がした。伏し目がちに、うつむいた表情でー。
ハッとして振り返ったが、誰もいる筈がなかった。海中の岸壁に張り付いている伊勢エビを、もっと効率的な狙い方に変えて歩いているSさんの灯す、懐中電灯の小さな光だけが、遠く暗闇の中で動いているのが見える。
ボクは次第に、今自分がここにいることを、後悔しはじめていた。釣れないこともあるが、夜の時間が永遠とも思えるほど長く感じられる。
そして彼女の死のことが、気分をいつまでも憂鬱にさせた。
港町に輝く家々では皆がくつろぎ、柔らかな布団の上で眠るのだろうな、などと考えはじめてしまう。ボクの精神はこのまま、明日の朝まで果たして持つのだろうか。
溜息とともに、思わず空を見上げた。そこには、かつて見た満天の星空がある筈だった。だが、見上げた夜空には、星のひとつもない。闇夜かー?いや違う、空は暗いのではなく、黒いのだ。気づかない間に、上空には天気の急変を告げる、鬱蒼とした暗雲が垂れ込めていたのだ。外洋の沖合に目を向ければ、彼方に稲光りが沖合の海を照らしているではないか。
予期せぬ出来事であった。そうか、これから天気が荒れるのだな、などと考えている場合ではない。今自分のいる場所は、海の上の孤立した場所であり、船でしか行き来できない。これまで釣りの最中に夕立を寸でのタイミングで回避したことは何度かあったが、それも昼間の話である。夜に沖堤防に取り残される形で大雨に見舞われたらと思うと、ゾッとした。貧弱なテントでは避難に限界があるし、何より落雷の危険がある。
ボクの鼓動が早くなった。恐ろしい気持ちの導火線に火がついた。そんなことを知る由もないSさんは、相変わらず伊勢エビ釣りに夢中だ。時計を見ると、10時半だった。渡船をしてくれた船長に電話するか、しかし明日の朝までと言ってこんな時間に迎えに来てくれとは、迷惑な話ではないかー。
ボクは逡巡したが、思い切って船長の携帯に電話をした。事の次第を告げると、船長は快く応じてくれ(下手したら人命に関わることなので、当たり前だが)、迎えに来てくれるという。
ボクはSさんを呼びよせ、すぐに帰れるように荷物をまとめるよう伝えた。テントも畳むのは面倒だったが、荷物をまとめあげると船が迎えにきてくれ、ボクらは沖堤防を離れた。
港に着いて船長にお詫びした。船長は先の花火大会で実行役の係をしていたそうで、この先の雲見の海岸に無料の露店風呂があるから、温まっていったらいい、と言ってくれた。
丁寧にお礼を言い、車で港を出発した。露天風呂に興味はあったが、一刻も早く、東京へ向けてこの場所を出発したい気分だった。
間もなく車が海岸沿いの峠道に差し掛かった頃、土砂ぶりの雨が降りだした。もしあのままだったらと思うと、心底ゾッとした。
思い返すと、色々なことや思いが錯綜した一日だった。何よりY子ちゃんのことが釣りをしている間中も頭の中をよぎり、楽しい気分になれなかったことが大きい。そして、最後までこの始末だった。
睡眠不足と疲労で睡魔が襲ってきて、助手席でウトウトしかける。時折意識がフッと遠くなる中、フロントガラスを叩きつける雨の音が、いつまでも心を不安な気持ちにさせていた。
そんな夏の日から数年、Y子ちゃんの祖父に当たる叔父が死んで、再び西伊豆の町を訪れた。Y子ちゃんの夫も葬儀に駆けつけていた。夫をはじめ、きっと顔を合わせた親類は彼女の死の真相を知っているだろう。だが、それを知ったところで、彼女が帰ってくる訳ではない。ボクはそのことを知るのを止めることを心に決め、葬儀の最中その話を切り出すことはなかった。
後日、彼女の母親に原因がある、というあまり知りたくなかった話を別な親類から聞いたが、それが真実であったかはわからない。もし真実なら、とてもイヤな話だった。
しかしそれを裏付けるように、その後Y子ちゃんの母親が、西伊豆の実家で同じく首を吊って自殺してしまった。気が狂ってしまった、という以外、原因は定かではない。
ボクは父親も母親も親類が多く、今まで随分死に直面してきたが、この一連の出来事の悲しさは、今でも言葉にならない。
楽しい筈だったあの夏の日が暗い思い出として今も記憶に残っているが、いつの日か再び西伊豆の町を訪れた時は、遠い日、Y子ちゃんと一時を過ごした、あの輝いていた夏の日のことに想いを寄せたいと思っている。
プライベートで色々事情があり、noteへの投稿に時間がかかった。いきなり暗いテーマで恐縮だし、思わぬ長文になってしまった。読んでいただけた方には、ひたすら感謝です。まあこれも、ボクのひとつのスタイルなのです。
最後に嬉しい話題を。
ボクの長年の友人が、ついにnoteデビューしたのです。原利央さんというボクの専門学校時代からの友人で、品川区の戸越公園商店街の会長さんであり、実家の三栄家具店の社長さんという、エライ人なんです。美人な奥さんにも仲良くしてもらっているのです。ボクの「にっかつ」の記事に出てくるクサイ、じゃなかったマズイ飯を食った友人というのが、この人。これから映画の記事なんかも発表してくれれば楽しみですね。
あと、公表してしまうけれど、会長さんが主体となり、品川ケーブルテレビと協同で、商店街のPR動画を企画中。そのシナリオを提出したのが、ナントこのボク。シナリオがはたして採用されるかはわかりませんが、何かしら協力できればとも思っているのです。そんな話も、今後記事としてアップされるかもしれません。ご期待のほど、宜しくお願いします。
そして、ボクの投稿が滞る中、自分の記事を紹介してくれ、ビジュアルクリエイターとして優秀な才能を持つ、天才妖怪アシスタントのユウさんには、いつもいつも感謝している。アリガトウ。