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挫折からの脱出 (3) 体験談

 挫折とは何かについて、自らの経験談を語っていきましょう。

 私は、小学校から中学校といたって平凡な生徒だった。家でも家族を困らせるようなことはなかったし、かといって特段優秀でもない目立たぬ存在だった。中学に入学し、周りの勧めもあり運動部を選び、当時は珍しかった硬式の庭球部に入部した。中学1年生は、体力差がまだある時期であり、体格に恵まれていない私には厳しい練習の日々であった。上級生は、新入部員にひたすらマラソン練習をさせ、ラケットの素振りや柔軟体操後、一面しかないコートでの玉拾いをするのが常であった。その練習スタイルは変わることはなく、秋になってようやく1週間に1回程度コートでボールを打てる機会を持つことになった。この程度の練習では、まともにテニスが出来るはずもなく、2年生になったが、新入部員の何人かは小学校からすでにテニスをやっていて、はるかに私よりもテニスがうまかった。

 2年生の1学期でテニスをするのが嫌になって、事実上退部をした。事実上と言ったのは、部費は相変わらず親にもらっていて、いわゆる幽霊部員であった。その後、私は皆と交じることもなく帰宅部となって商店街で時間を潰しながら帰宅するのが常となっていた。趣味もなく、テレビにも興味がなく、今となってはその時何をしていたのかも思い出すこともできない。さらに幽霊部員となった直後に拒食症になり、親が作った弁当はほぼ手つかずで毎日そのまま家に持ち帰っていた。親はそんな私を見て嘆くものの、悪さをするわけでもなく、反抗的な態度を示すわけでもないので、結局見て見ぬふりをするようになっていった。

 親しい友達もなく、高校受験の時期を迎え塾にも行かずにいままで通りの生活を続けていた。学校での成績は、試験の前日に勉強するだけでそこそこ点数が取れていたので、内申点はそこそこだった。高校受験では、親が親戚に自慢するようないわゆる名門校に入学することができた。しかし、私の本質がそこで変わることはなかった。

 高校生になっても、部活に参加することはなく、クラスメイトを作ることはなかった。相変わらずの帰宅部であった。中学時代と違うのは、学校が終わるとそのまま家に帰るので、4時過ぎには帰宅していた。拒食症は相変わらずで、体重は同じ身長の女子の方がよっぽど重かった。運動は、おっくうになり、家にいる時間が増えてきた。高校での試験は、前日の一夜漬けでこなすほど甘くはなく、成績は急降下してきた。学年成績のほぼ下位に属していたが、私自身そのことを気にすることはなかった。英語や数学は大体10点から20点の間でもはや授業にすらついていけずに先生も授業中に私を指名することは全くなくなった。

 それは、高校2年生の3学期から高校3年生の1学期のころだった。

 1年上の先輩達が大学へ進学したり、就職したりと新たな旅立ちを迎えていたので、私の同級生も最上級生となり将来のことを話しあう機会が増えてきた。歌舞伎の舞台芸術に一生を捧げる覚悟ができたU君は芸術大学を目指すと宣言したり、数学を極めるために京都大学理学部を目指すN君、当時は珍しかったメンタル面でのケアを世の中が求めていると目覚めて東京大学医学部を志望校にするK君がいた。また、家業の下町材木問屋を継ぐために就職するF君、電機工務店に入って技術を身につけたいと思うO君もいた。

 皆、将来の夢があり、いや夢というより現実的なターゲットがすでにありそれに向けて走り出していた。もちろん運動に長けたM君は、最後のインターハイに向けて部活以外にトレーニングジムに通って、東京都代表からステップアップすべく日本代表を狙っていた。

 私の周りは、人生の門出を迎えるにふさわしい準備をすでにしていた。一方、私は漠然とした将来像すら描くことができず、といってやりたいことや得意なこともなく宙ぶらりんな状況であった。しかし、社会の時計は私の都合で変わることはなく、約1年後には結論がでていることは明白であった。結局、高校での最終学年はそのままの生活が続き、本来ならば卒業すらできない成績であったが、各教科の先生たちの応援もあり卒業する、いや高校から追い出される証をもらった。

 将来を描いた人達はターゲットをすべてクリアし、それぞれの道を歩んでいった。私は、大学を数校受けるも合格するはずもなく何をやるかも定まっていない浪人生になった。予備校も2週間ほど通ったが、やる気すらない私はすぐに止めてしまった。親が心配するとは思ったもののごまかすのも面倒なので、宅浪を決め込み近所の図書館で一日中ぼーっとしていた。図書館の閉館のチャイムで、帰途についたときに見た夕日で自分は後戻りできない状態になっていることにようやく気づかされた。太陽は明日になれば、朝日となって燦々と大地に日を照らすに違いないが、私は沈む一方で再度上ることを許されていないことを理解した。

 人生、いや社会の時計は否応にも時を刻んでいる。その動きを見てないふりをして今に至ってスタート地点すらついていない自分に改めて悔いた。悔いたというよりも諦めた、投げ出したという感情が勝っていた。6年以上拒食症の私には、全く体力がなく結局帰り道で意識を失い倒れてしまった。気がつくと、大勢の人達が私を囲んでいるが助けてくれる人は一人もいなかった。助けるどころか、やれやれといった様子で離れていった。社会から見放されていることを直視しなければならない状況になっていた。

 私は、その状況こそ「挫折」であると考えている。

 目標がない、やりたいことがない、楽しいことがない、かまってくれるひとがいない 何もできない自分、途方に暮れている自分、でもその現実を直視できない自分・・・・・・ 

 この状態こそ「挫折」であると考えている

 目標を達成できなかった、思うような結果がでなかった、失恋したしまった、経済的に破綻してしまった・・・・・・このような能動的な事由で招いた結果は、状態は「挫折」ではない。きっと数日、数週間後には、そこから這い出すための一歩を進み出しているに違いない。心に残る深い傷を労りながら次なるステップを描くに違いない

 次章より、私の味わった「挫折」からの脱出のアプローチについて言及していきます。

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