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【英文学】ジョージ・ゴードン・バイロンの名言
こんにちは
7つの習慣のブログ楽しみにしている人も多いと思うがまとめるのにかなり時間がかかるのでもう少しお待ちいただきたい。
英文学関係のサイトを見ていてたどり着いたのが、ジョージ・ゴードン・バイロンの名言集のサイトである。
このサイトだ。
バイロンの経歴についてまとめておく。
イギリスの詩人、男爵。バイロン卿(Lord Byron)として知られる。
ロマン派の代表的詩人であり、ゲーテに「今世紀最大の天才」と賞賛される。奔放な女性遍歴、ギリシア独立運動への参加など波瀾の生涯を送るも熱病のため36歳で死去。
国: 英語(ロンドン)
生: 1788年1月22日
没: 1824年4月19日(享年36)
1810年5月3日にダーダネルス海峡をヨーロッパからアジアへ泳いで渡った[8][9]。
政治的にはホイッグ党支持者でありトーリー党の外交政策を批判した[10]。
数多くの女性との恋愛を重ねた。ジェーン・エリザベス・スコット(英語版)と1812年まで関係を続け、同年キャロライン・ラム(のちのイギリス宰相メルバーン子爵ウィリアム・ラムの妻)とつきあったがすぐに2人は破局した。その後もキャロラインは彼につきまとい続け、彼への思いから身をやつしやせ細った。これに対してバイロンは骸骨のようだと述べている[11]。また異母姉のオーガスタ・リーと関係を結び、彼女はエリザベス・メドラ・リーを産んだ。その後1815年1月2日、レディ・キャロラインの従姉妹のアナベラ・ミルバンクとダラムで結婚した。同年12月10日、2人の間にはエイダ・ラブレスが産まれた[12]が翌1816年1月16日、アナベラは娘を連れて彼の元を去り、4月21日バイロンは離婚証書にサインをしている。その後ヴェネツィアに滞在した際には既婚のマリアンナ・セガティ、22歳のマルガリータ・コーニと関係を持った。コーニは読み書きが出来なかったが夫の家を離れ、バイロンと同居した。2人はしばしば争いバイロンは自身のゴンドラで夜を過ごすことが多かった。その後彼がコーニに家を出て行くよう言い放ち、彼女は運河に身を投げた。1818年から1820年にラヴェンナに滞在した際にはグィッチョーリ伯爵夫人テレサと関係を持った。
そんなバイロンが僅か36年の生涯に、詩人として数多くの詩集や詩劇をものすることができたのは人並み外れた速筆の故である。彼が詩集『ララ』を書いたのは、舞踏会から帰宅して衣服を脱ぎ換える間のことであり、詩劇『海賊』は4日間で、『アバドスの花嫁』は10日間で書いている。
また動物好きであり特に愛猫家であったため、愛猫5匹に加えて、馬や犬、猿、鳥を飼っていたという。
その中でも心に残った名言がこちら。
笑えるときは常に笑え。金のかからない薬だ。
Always laugh when you can. It is cheap medicine.
言葉は物質。一滴のインクが露のごとく、思考の上に落ちて何千もの、何百万もの人を考えさせる。
But words are things, and a small drop of ink, Falling like dew, upon a thought, produces. That which makes thousands, perhaps millions, think.
一番目の名言は、笑うことは常に良いことだ。人生において幸せになる方法でお金がかからない手段としては毎日笑顔でいることだ。
2番目は、言葉はインクのように広がり、何人もの人の心を動かしたり、悲しみに陥れたりさせることがある。と解釈した。
言葉と笑顔を大切にしていきたいと感じた。
英語で経歴を読みたい人はこちら
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