朝ドラから再評価するアニメーションの歴史
連続テレビ小説「なつぞら」。
100作目の作品で、過去の朝ドラヒロインをてんこ盛りにしたキャスティングの豊富さで、そりゃあ、これだけ芝居できる人集めりゃあ、面白いわけだよ。
この作品の切り口は何通りかある。
① 北海道の開拓民という観点。
② どさんこ農業(主に酪農)のピックアップ。
③ 戦後復興の社会情勢。
④ ワーキングウーマンの先駆け。
⑤ そして、国産アニメーションの黎明。
この作品のモデルになったのが、云わずと知れた東映動画。
若き日の高畑勲や宮崎駿が所属していたことで、知らぬ者はない。漫画で少年ジャンプが「努力・友情・勝利」とテーマとしているのなら、東映は一貫して「ヒーロー・ヒロイン」の追及だろう。
アニメーションは、ご存じのとおり、大多数の人間で、ひとつの設計図(たとえば、シナリオや絵コンテ・ストーリーボードなど)に従って共同作業していくもの。昭和世代ならば、気取ったことを脱ぎ捨てれば
漫画映画とかテレビ漫画などと称されていたことをお忘れではあるまい。
なにせ東映では、「東映マンガまつり」が看板上映されていましたから。
アニメーションという単語が大きく浸透したのは、70年代後半の東映動画作品「宇宙戦艦ヤマト」「さらば宇宙戦艦ヤマト」あたり。アニメージュ創刊号の特集はヤマトだったと記憶する。
「なつぞら」は、その前の時代の東映動画の奮闘がモデルにされたと思われる。
東映動画。元祖は昭和23年に設立された日本動画株式会社という会社。これが東京映画配給株式会社に統合されて、昭和31年に東映動画株式会社となる。日本最初のカラー長編漫画映画「白蛇伝」を制作したのが、この東映動画です。この頃から、東映動画は日本の劇場アニメーションを牽引していくことになる。
当時の東映にいたアニメーション職人は、手塚治虫の虫プロやその他の会社へ移り、その実力を発揮したといわれます。東映動画のアニメーションについては労働環境が悪いという声を、当時働いていた人たちが声に残しております。このとき労組の書記長をしていたのが宮崎駿です。高度経済成長期、学生も、企業も、現代とは異なり熱い時代でした。それらを包括して、宮崎はのちにアニメージュ文庫の著書で、時代や最低所得層の話題に触れております。
クールジャパンとして世界から絶賛される日本のアニメーション。
その黎明期は、決して輝かしいものではなかった。普通にやったら興行収益が振るわない、制作者の引責辞任、そんなことばかりを繰り返せば産業そのものも成長しない。
「どこが、クールジャパンだ」
というシビアな現実が滲んできます。この朝ドラのなかでは主人公の産休問題も描かれたが、これは奥山玲子・小田部羊一夫妻の実話を切り取った部分でしょう。
東映のアニメーションはテレビアニメの焼き直しをする時代になっていきます。新しい漫画映画は単独で制作できないし、収益につなげられぬ。苦肉の策です。春休みや夏休みのときに、短期集中決戦を挑む。テレビ漫画の焼き直し。それでも隙間に、オリジナル作品を挟んでいく。1969年に公開された『長靴をはいた猫』(第1作)は、キャラクターの愛くるしさや、製作スタッフの熱量もあって、稀なる大ヒットでした。のちにこの作品は、東映動画創業40周年(1996年)記念のファン投票で1位になります。
が、当時の子供たちは「東映まんがまつり」という斬新な企画の裏側までは知りませんでした。
東映動画という会社でありながら、実際には親会社である東映の下でアニメーションを制作した。この歪みがアニメーションという文化に、大人の事情を挟んで子供の夢を商売とする矛盾に行き着くのです。
クリエーターだって不服を抱いて去る者もいる。しかし会社人だって不服を抱えながらも守らなければならないものがあった。まるで日曜劇場のドラマになりそうな土壌ですが、それでもクリエーターは技を磨き切磋琢磨を怠らなかった。
会社だって勝負のチャンスをじっと待っていた。
ひとつ云えるのは、興行成績の不振=アニメーション作品の失敗ではないのです。事実、興行の奮わなかった作品を後年検証し、再評価されたものもあります。
東映の興行失敗作「太陽の王子ホルスの大冒険」の評価は、21世紀になって高いものに変わっています。当時のスタッフが、スタジオジブリに代表される世界的な評価に変わっただけ、とは考えたくありません。この当時の技術と制約の中で、これだけの作品を生み出したのは凄い事なのです。しかし、結果が全てというのが悲しい現実。大塚康生は「それまでの長編漫画の最低を記録」と自戒している。
東映動画にとって起死回生の一発は、昭和54年。設立以来、親会社の東映の下で制作してきた劇場アニメの、初の自社製作作品を発表します。
有名な、「銀河鉄道999」です。
まだ原作連載中で誰もラストを知らないのに起承転結を描き切る斬新さ。音楽も作画も、いま観ても聴いても、十分に通用する。この作品は、この年の邦画配給収入第一位を記録しました。実写にアニメが勝ったのです。
最期に。
東映のアニメといえばマスコットキャラクター「ペロ」。
これは昭和44年東映まんがまつりで上映された「長靴をはいた猫」のキャラクター。
当時の東映動画スタッフだった宮崎駿は、東京新聞日曜版に漫画として紹介しました。東映動画創業40周年を迎えた平成8年(1996)、歴代人気ファン投票で「長靴をはいた猫」は、見事1位を獲得しました。いまもむかしも、東映動画の看板、それがペロなのです。
東映動画は平成10年に東映アニメーションに商号を変えました。
「なつぞら」では、東映動画だけではなく、その後のスタジオ移籍などを描きました。当時のアニメーターの、えんぴつ一本渡り鳥を切り取っています。
現実的に、東映からAプロダクション(東京ムービー)に移籍し、やがてはズイヨー映像(日本アニメーション)ほかに人材は「人財」として動く。のちに日本アニメーションから徳間書店と接点を得た宮崎・高畑コンビによるスタジオジブリへ発展したのは、ひとつの完成形でしょう。
この部分は、やりたい情熱と、受注とニーズ、日本の労働者が熱かった時代をオマージュしてたのではないでしょうか。
そういう見方をすると、「なつぞら」は違った楽しみ方が出来るような気がします。
ただし、アニメーションだけじゃない。
開拓民スピリットとか。
「百姓貴族」にも負けない北海道農業のこととか。
天陽くんの実在モデル「神田日勝(にっしょう)」の再評価とか。
戦後の、本当の貧しさとか。
水商売の光と影とか。