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Coffee break:真実はいつも「自分」に(より)隠されている(1,020文字)

12月ももう5日目。街にはサンタクロースがあふれ,今年の悲喜こもごもと一緒に,懐かしい思い出と,新しい来年が,交差しています。

さて,今回は「学ぶことあれこれ」なんて題しまして,教育,学習,学び,訓練,などなど…古くはアカデメイアから始まり,新しくはオンライン教育に染まる。ことを,ぼんやりと考えてみたいと思います。なんて。

人は一生学び続けるものなんです。誰しもが誰しもの学びを続けるものなんです。生きているというのは,そもそも学び続けるプロセスなんだとおもうわけです。それには孔子も,ソクラテスも異論はないでしょう(ソクラテスはそれは何故かと言いそうですけどね)。

私が書いている,「調べる:」とタイトルするシリーズで,今のところ学びについて,今風にいう「深堀」をしています。カタイ文章なので読みにくいかもしれませんが,わりとマジメに書いているんですね。

で,その中で「教育の四本の柱」なんて取り上げたのですが,この中に ’Learning to be’ という言葉が出てきます。'to be' という表現はかっこよいです。to-beは「その先にある姿」のように訳すことが出来ます(TO-BE | English meaning - Cambridge Dictionary)。learning to be とするなら,学び,そしてその先にある姿。とでも言うんでしょうか。

しかし,教育の四本の柱,から考えると,前段にある事柄を学んだ,その先に,と読むことが出来るので,知り,実践し,人を知り,その学習の先に完成させる。すなわち人となるのだ。みたいな。そういう力強さがあります。

人は学びます。それは誰に押し付けられるものでも,また,規定されるものでもない。そう思うのですが,より大切なことがそこにはある様に思います。

真実はいつも隠されている。

陰謀とか,そういうことではなくて,ものごとがわかる,というのは何かそういうことを経るような気がします。読もうとしても読めず,聞こうとしても聞けず,やろうとしてもやれない。わかりあいたくてもわかりあえず,そして人としての自分を知ることも出来ない。

だから,学ぶことで,わたしたちは,わたしたちを知るのかもしれません。

つまり,真実はいつも「自分」に(より)隠されている。

なんて,たいそうですね。みんな,それぞれがそれに向かう旅路にある。そんな気持ちが学びにはあるような気がします。

今回もありがとうございました。

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