『ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(読書日記)

夏の課題図書1冊目。

わたしが「わたし」として生きる意味って何だろう?

この問いが、自分のなかで沸騰しています。文字通り、ボコボコと沸き立って止みません。そこから、「なんでそんなこと考えるようになったんだろう?」と思い返すと、偶然出会った日経新聞のコラムの存在がありました

日経新聞2021年9月27日 大岡山通信
名著が問う「服従」の意味 学生との読書会から

このコラムでは、「服従」の意味について、ハンナ・アーレント著『責任と判断』(ちくま学芸文庫)を参考に考えた読書会のことが書かれています。コラムでも紹介しているとおり、本書はかなり強烈な文句が帯に書いてあるのですが…

「自分で考える責任を回避した瞬間、〈凡庸な悪〉が生まれる」

この帯に強烈な感銘を受けて、「自分で考える、判断するとはどういうことなのだろう?」という問いが生まれ、ハンナ・アーレントの著作を読んでみることにしました。

本書には、ハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマン』の題材になったアイヒマン裁判のことが多く書かれています。アーレントによれば、ナチによるユダヤ人の大量殺戮は、アイヒマンのように、何も考えずに非人道的な殺戮に手を貸したきわめて平凡な人によって引き起こされたといいます。決して、極悪非道な悪人によって引き起こされたのではない、と。

んー、難しい。なんとなーく理解して、入門書で大まかに理解しよう!ということで、今回はアーレントの概説書である本書を選んだわけです。

わたしとして生きる→他に服従しない→自分で考えるとは?(思考力とは?)→…
といった流れで、ハンナ・アーレントの著作を筆頭に、今年の夏は「思考力」について深めようと思ったんです。

本書で特に印象に残ったのは、2つ。

①理解することについて
 理解するとは、既存の枠組みに当てはめて納得することではない。現実に、注意深く直面し、抵抗することだ、と。

アーレントにとって理解とは、類例や一般原則によって説明することでも、それらが別の形では起こりえなかったかのようにその重荷に屈することでもなかった。彼女にとって理解とは、現実にたいして、前もって考えを思いめぐらせておくのではなく、『注意深く直面し、抵抗すること』であった。従来使用してきたカテゴリーを当てはめて納得するのではなく、既知のものと起こったことの新奇な点とを区別し、考え抜くことであった。(105)

『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(p.105)

注意深く直面し、抵抗するとは?難しいですが、あるがままの現実を観察・分析して理解することではないでしょうか。場合によって、それは起きてはいけないと反発すること・立ち上がることが必要になる。そうでなければ、ナチスドイツのような全体主義の台頭につながってしまうからですね。

②「わたし」の存在価値について
 わたしがなぜ存在するのか。それは、世界に新たな「始まり」を作り出すため。

そもそもなぜ誰かが存在しなければならないのか。『世界』は、死ぬ存在である個々の人間を超えて持続するものであり、そこに生まれてくる人間は『始まり』として世界に新しいものを加えうる。しかし、一人ひとりが唯一無二の『誰か』として存在しないかぎりそうした『始まり』はありえない。

『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(p.139)

存在しなければならない、という書きぶりが良いですよね。世界は多様な見方をする多種の個人の存在があってこそ、はじめてリアリティが生まれると彼女は言います。単一の見方(=特定の世界観)に固執していてはダメだ、と(たしかに、それだとフィクションと現実との区別ができなくなる)。立脚点を持たない、柔軟で自由な、動きのある思考をしようということです。

なんかそれって、水みたい。

彼女は、理解するために書いたそうです。
わたしもその姿勢にならって頑張って書こう。

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