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わたしのゆめ

国語の教師になりたかった。
文章を読む楽しさを、古典から得る自分との繋がりの感動を、伝えたかった。


悩める子供の相談相手になりたかった。
かつて私がそうしてもらったように、誰かの心をそっと掬い上げたかった。


大学にはいけない可能性を理解しながらも、夢見ていた、中学3年生の頃。
卒業の折に書かされた、20歳の自分へ宛てたメッセージ。手元には無いけど、そこに何を書いたか、よく覚えている。



「進学しているか、就職したのか分からないけど、自分が納得した道を進んでいると良いな。」


現実は、私が思っているよりずっと厳しかった。


高校に入学し、クラスに馴染めず不登校になった。
小学生や中学生の頃は、リーダーシップをとって、学級委員や、副部長、生徒会役員を担っていた私が、まさか学校に行けなくなるなんて思わなかった。

苦しかった。惨めだった。悔しかった。ああ、中学の頃、行事の時にしか顔を出さなかったあの子たちは、こんな気持ちだったんだと知った。過去の自分の無神経さを呪った。


進級すると同時に、通信制の高校へ転校し、高校3年の進路面談で、公務員になりたいと言った。
中学時代の友人に会った時、高卒であることを馬鹿にされたくなかった。公務員になれたら、私のプライドは保たれると思った。

それから毎日、バイトの合間に勉強をした。国家公務員試験と、地方公務員試験を受けるつもりだった。
私が通った通信制の高校では、高校を卒業できる最低限の単位しか取らない。私には、公務員試験に必要な単語、数式、あらゆる知識が不足していた。
過去の公務員試験の問題集を買った。毎日ノートと向き合って、必死に勉強した。


それでも、圧倒的に時間が足りなかった。
解けるようになっておくべき問題にはほとんど手を付けられずに試験日を迎え、ほぼ白紙の解答用紙を提出して、その日は終わった。


数日後に、もう一つの公務員試験があったが、もう受からないと諦めて、試験会場に向かうことすらしなかった。
進学コースの授業を特別に無料で受けさせてくれ、作文問題の添削もしてくれた担任の先生に、申し訳が立たなかった。


その後、就職活動に身が入らず、卒業ギリギリに就職先を決めた私は、一年後にうつ病と診断され、退職を余儀なくされた。



私は、立派な人になりたかった。人望厚く、頼りにされ、自分の役割を果たし、他人にも優しくできる、そんな人になりたかった。


それなのに、結果として、こうして過去ばかり見て後悔し、ちっとも役に立てない、身体だけが成長した大人になってしまった。そんな私を、私は情けなく思う。
環境のせいにはしたくない。それは甘えだと思うから。

すべて自分で選んだことだ。自分で入学先を選び、転校先を選び、就職先を選んだ。


しかしその後私は、「自分が納得した道」を歩いていたのか?


中学3年生、あの日みた夢だけが、手垢も付かず、眩しいほどに輝いたままだ。


僕が死のうと思ったのは
少年が僕を見つめていたから

ベッドの上で  土下座してるよ
あの日の僕に  ごめんなさいと

「僕が死のうと思ったのは」中島美嘉

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