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龍宮
作品名:龍宮
制作年:2022
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おとぎ話に出てくる浦島太郎は、助けた亀によって海中にあるとされる龍宮城へと招待される。そこで乙姫らの饗応を受け、しばらくの間その龍宮城で過ごすことになるのだが、龍宮と呼ばれる場所にもかかわらず龍はひとつも出てこない。もっとも語られるものによっては登場することもあろうが、広く伝わる物語の流れの中にはその影すら見当たらない。
この話の原型とされる説話が、日本書紀をはじめとしていくつかの文献で見ることができ、そこでは龍宮の代わりに蓬莱あるいは常世といった場所に訪れることになっている。蓬莱といえば仙人が棲むとされる島であり、一方常世といえば海の彼方にあるとされる理想郷である。どちらにしろ現代でいうところの異世界であり、龍宮もまたその異世界の表現として用いられているに過ぎない。換言すれば、龍宮とは非日常的世界のことである。
非日常的な世界や空間というのは、なにも文学作品やサブカルチャーに限った話ではない。たとえば雄大な自然や世界遺産といった観光地から、ちょっと変わった雰囲気の喫茶店まで、普段は味わえない刺激に充ち満ちた空間というのは、実はそこら中に存在しているのだ。そして存在しているということは、誰かがそれを営みまた管理しているという証拠でもある。そこにはお金が動き、仕事があり、たくさんの人が携わっている。
そこで働く人、あるいはそこに住む人にとっては実はそれこそが日常なのである。浦島太郎にとって非日常的空間だった龍宮城も、そこに乙姫や亀たちが棲み、生活していなければ――つまり、乙姫たちの日常がなければ存在しえないのだ。
非日常は、実は日常の裏返しなのである。
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光彩のひとつひとつが魂の尊い煌めきである
本作品の龍宮は、龍の棲む世界と解釈されている。多彩な色を使って表現された龍は夢のように穏やかで美しく、そしてラメを用いているために実物はとてもまぶしく煌びやかである。夢、美しさ、穏やかさ、煌びやかさ……私たちが非日常的世界に足を踏み入れたときに感じるものが、ここにはすべて込められている。龍の棲む世界は、おそらくこれまで訪れたどんな観光地よりも夢のように美しく、どんな体験よりもまぶしいに違いない。しかしそれは人の世界から見たひとつの景色に過ぎない。
龍にとっては、その美しさやきらめきこそが日常なのである。彼らはそれぞれが持つ役目をまっとうし、なにも飾らずなにも抵抗せず、ただ流れの中に生きている。そこに良し悪しもなく、不安も恐怖も後悔も迷いもない。
なぜなら存在そのものが美しいこと、やることなすことすべてが煌びやかで、そしてすべてが穏やかな流れのなかにあることを龍はよく知っているからである。知ってるからこそ、それを選び、それを生きる。よく耳目に触れる『ありのまま』で生きることが、龍にとっての日常なのだ。
なにかあればすぐに抵抗し、不安に駆られて行動し、効率や値段でモノゴトの良し悪しを判断して生きる我々の日常こそ、実は非日常的世界なのかもしれない。そんな世界を観光地として楽しんでしまうか、あるいは本作品が描き出す非日常的世界を自らの日常にしてしまうかは、あなた次第だ。
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源龍図には『龍宮』と書いて『とこよ』と読む作品が存在する。浦島物語の原型に倣った題名のようにも思えるが、言及された文献によると龍というよりはその時代の生活をただ描いたものだったようである。たとえば竈から出てくる煙を龍のように描いたり、路行く人たちの空にかかる雲に龍の輪郭を持たせたりといったように、龍は遊び心にとどめて、あくまで画の中心は人々の日常だったようである。とこよとはおそらく常世であり、理想郷のそれではなく文字通りの意味『常の世=日常の世界』だったのであろう。それに龍宮の字が宛がわれたということは、絵師達がみな普段の営みの美しさに気づいていた証でもある。たしかに、営みの字には宮が存在する。
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そこに見ゆるは、はたして表か裏か
答えは己の裡(うち)に
裏返しとは先述したが、よく見れば裏の中にも表の字がある。ともすれば日常も非日常も、表も裏もすべてその人の捉え方によって映る姿が変わるだけで、はじめから同じものということになる。
やはり、すべては私たち次第ということであろう。
委ねる芸術家
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