立心龍
作品名:立心龍
制作年:2021
人にこころがあるように龍にもこころがある。ただ人と違うのは、常に愛に充ち満ちている点である。ある時は悦びを、ある時は愉しさを、そしてまたある時は恍惚の中を龍のこころは漂い続けている。それ故、怖れることもなければ慌てることも憤ることもない。それは愛ですっかり満たされているからではなく、むしろその逆だ。龍のこころはすべての感情を持つことができるだけの器の広さを有しており、感情の余白は無限に存在する。ではなぜ憤ることや怖れることがないかといえば、単純に選ばないだけである。感情は選択の結果であり、選択は愛のひとつの表現なのだ。
立心は中国語で決心する、考えを決めるという意味があり、やや強い意志があるものの自ら選択していることに変わりはない。しかし決心の表れとしてこの龍が顕現したわけではなく、選択するという自由が形而下にまで降りてきたというべきであろう。
源龍図には【立心龍伏して忑龍となり好く茲を支える】とあり、それ以上の言及はない。一説には無心になって描いた立心龍を憮龍と称するようだが、これも詳細はわからない。これらを理解するには虚新の著した『龍文解字』の忑龍の部分を引くのがいいだろう。いわく【忑龍立心して小に似る。是立心龍なり】とあり、明瞭になるどころか余計に判然とせず首をひねりたくなるが実はここに大きなヒントがある。
実際首をひねるかわりに、画を90°回転させてみる。いま、横になった龍のかたちに注目してほしい。なにかに気がつかないだろうか。離れて見るとよくわかるのだが、左右に湾曲した体躯と口元および角の位置がそのまま『心』の文字になっているのだ。源龍図の【立心龍伏して忑龍となり】とは立心龍を上のように傾けた時の姿をいい、続く【好く茲を支える】とは『心』の上に『茲』を乗せた『慈』の字のことを表しているのだ。忑とは文字通り下についた心、つまり漢字の部首をいっているのである。龍文解字の【忑龍立心して小に似る。是立心龍なり】とは立心偏『忄』を指し、立心龍とは部首の『忄』を龍の画で表現したものに他ならない。これが立心龍の本当の姿である。
龍にもこころがあるいったのはことば通りであり、味わう感情として『悦び』『愉しさ』『恍惚』がすべて『忄』のつく漢字なのはそのためである。『怖れる』『慌てる』『憤る』も同じでありながらそれらの感情を選ばないというのは、布や荒といった旁の部分を選ばないことをいっているのだ。
人はその時々であらゆる感情を味わう。自然発生したように思えて実はどんな感情を味わうかの選択を毎瞬している。それは観方を変えるとどんな時でも好みの感情を味わうことが可能であることをいっている。好みの感情を味わうことは漢字を書き替えるが如く単純なことであり、いついかなる時も選択の自由があることを立心龍は身をもって伝えているのである。
最後に。憮龍とは無心で描いた立心龍であると先述したが、憮とは文字通り無心によって成り立っており、憮然のことばにあるように『がっかりする』という意味がある。しかし憮にはもうひとつ意味があり、龍はそちらの感情を常に選んでいる。ぜひその意味を自身で調べてもらい、龍のこころの温かさを存分に味わってほしい。
委ねる芸術家
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