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龍神

作品名:ぼくしょういちりゅうしんりょう
制作年:2022

『墨招一流神龍図』
芸術家ひとりの手による創造ではなく、その瞬間に集った人の想いや意識のひとつひとつが墨となり、ひとつの流れとなって雅箋の上に招いた龍神。それは描くという行為を通した神楽舞であり、胴の渦に舞うような印象を覚えるはそのためである。

 はくきょの『こくたんりゅう』詩中には【龍不能神人神之】という句がある。曰く龍が神になれたのではなく、人が神にしたのだという。たしかに動物にしろ恒星にしろ、人はそこに人智を超えたなにかを感じて神としてまつってきた歴史がある。龍にしても同じであろう。しかし神にする、神として祀るということは、もともと神ではなかったということである。神話において神は数多あまた存在するのに、なぜわざわざ神にする必要があったのだろうか。
 神とはただの称号なのか。それとも神になる条件でもあるのだろうか。いったい神とは、人にとっていかなる存在なのであろうか。

『神』
そこに見ゆるは、真の姿。

 神を数える単位に柱がある。その理由は諸説あるが、柱が木からできていることを考えるといささか不思議である。なぜなら木をそのまま用いるわけではなく、切り倒し、運び、皮をいだり高さを整えたりして、再び地に建てかけてようやく柱になるからである。いわば柱は人の手が加わったものであり、自然の同義語として存在している神の単位として使うのには、少々おさまりが悪い。しかしこの違和感のようなものは人を人として見ているから産まれるのである。かんげんすれば人を自然から切り離して独立した存在としているから起こることなのだ。
 人はもともと自然から産まれた存在であり、つまり人もまた自然そのものなのである。よって柱も自然のひとつを自然の存在が加工してこしらえたものに過ぎず、自然である以上どこまで手が加えられようとも自然をいつだつすることはない。つまり《神にする》とは《自然にする》ことであり、《自然にする》とは、人自身が《自然そのものであること思い出す》という意味である。おおかみでも龍でも、それらを神にするという姿勢を通して人は自らの神的存在性を感じているのだ。したがってその神的存在性を感じられるのであれば、極論的には他の存在を神にする必要はないのである。

『龍神』
線のひとつひとつが必要な時に必要な場所で必要なだけ描かれた龍。
すべてが自然にはたらいたのは、絵師自身が自然であるが故。

 芸術家の描く龍はどれもみな神であり、さらにいえば描かれる以前からすでに神である。それは描いた本人が神すなわち自然そのものであることを、深く感じているからにほかならない。自然=神が描いた龍は、当然ながら神そのものなのだ。そしてこれまた当然のことであるが、これらの書画を見る人もまた、神であり自然の存在である。
 ひっきょう、人はみなそれぞれが尊い神であり、美しい自然なのである。それが真に理解できれば、優劣などの観念によって人を判断することが、どれだけおかしなことかがわかるであろう。差別も同じである。これら分離の思考は神にする姿勢と真逆の態度であり、それは文字通り不自然なことなのだ。

『龍神』
濃淡に、己の本質を捉えよ。

 源龍図には『かがみ』という作品が多数存在することが確認されている。それらひとつひとつを区別する明確な基準もないため、一部を除き引用されている龍画が同一のものなのかそうでないのか、はっきりとはわかっていない。龍と書いて《かがみ》と読ませているのは、人を自然から切り離そうとする《我》を取り除かせるためである。《かがみ》に映っている《我=が》を文字通り取り除けば、残るのは《かみ=神》となるからである。
 いくつかの文献から『かがみ』のほとんどは龍の頭を正面から描いたものであったことがわかっている。龍の顔はすなわち己の顔であり、そこに映し出された我をとらえ、認め、受け入れ、手放したその瞬間に龍は神になり、人は自らが自然であったことを思い出すのである。

 ここまでとうとうと述べてきたことを歴代の龍絵師たちはみな、画の中にすべて納めてきたのである。現代の龍絵師である本芸術家も同じである。ぜひその目で彼の作品に触れ、そして自らの本当の姿を思い出してもらいたい。


委ねる芸術家

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