「北越雪譜」を読む:18
以前にも少し書いたが、私の母は和裁を生業にしていた。
大阪のある百貨店の呉服部に委託されて、お客さんが購入した反物を着物に仕立てるのが、母の仕事だった。
父と結婚した頃、母は月に5枚ほども着物を仕上げれば、まだ若い父の給料を軽く超える収入があったそうだ。
長襦袢や浴衣なら1日、袷の着物でも数日で縫い上げた。
重い木の脚の上に戸板を再利用したと言う長い天板が載せられた背の低い作業台が、リビングの隣の和室に置いてあった。母はいつもそこに、ペタンと足先をお尻の左右に逃す崩れた正座をして、背中を丸めて着物を縫っていた。
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着物が仕上がると、母はそれを綺麗に畳み、畳紙(母の言い方では、たとし)で包み、さらにひと回り大きいベニヤの板の角を丸めたものを下敷きにして、上から大きな風呂敷で包んだ。
それを百貨店まで持って行き、納品するのだが、学校に上がる前は、私も時々それについて行った。私一人が付いて行ったイメージしか浮かばない。妹や弟はどうしていたのだろう。弟はまだ生まれておらず、妹はおぶわれていたのかもしれない。
郊外の町からバスと電車を乗り継いで、さらに地下鉄に乗り換え、百貨店の裏口から入って(この辺りの記憶はおぼろげだ)、持参した着物を渡し、母は呉服部の人と話をする。次の反物を預かったりしていたのだろうか。
帰りにはいつも、駅の近くのたこ焼き屋で熱々のたこ焼きを食べた。
小さかった私は熱いものが食べられないので、母はたこ焼きを飲み水のガラスのコップに一度落としてから私の皿に乗せてくれた。
今考えると、コップにたこ焼きを落とすなんていわゆる迷惑行為だが、40年前はおおらかだったのか、単にSNSがなかっただけか、母と私が咎められることはなかったようだ。
長い間、私にとってたこ焼きとは、いったん水に落として食べるものだった。熱々のまま食べられるようになった時、少し大きくなったような気がしたものだ。
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母が作業をする傍には熱いコテが2本、専用の機械に差してあった。
コテには絶対触ってはいけない、鋏は跨いではいけない、鋏で布以外のものを切ってはいけない。子どもたちはそう厳しく言い渡されていた。
コテに触らないのはもちろん火傷をしないため、鋏を跨いではいけないのは今ではもう言わない種類の迷信があったため。
布きり鋏で布以外のものを切ってはいけないのは切れ味が悪くなるため。紙はもちろん、テープなんて論外だ。
ただ、唯一、子どもたちの髪を切るのは和裁用の鋏だった記憶がある。
母は何かと厳しかったが、不思議なことに、着物の近くでものを食べるな、と口うるさく言われたことはなかった。お客さんの着物を汚すことは、小さな子どもでも一度言われれば分かる、とてもとてもダメなことだったのかもしれない。
私と妹が学校に行くようになり、弟が幼稚園くらいでまだ母といる時間が長かった頃。
絶対に触ってはダメというコテに、弟は何度も手を伸ばしてきた。その度に母は怒るのだが、弟は面白がってやめない。
この子は母の気を引きたいのだ、と母は感じたようだ。
弟が、口の周りを舐めるのがクセになって爛れたり、チックの症状が出ていたことも気になっていた母は、弟のその行動を機に、和裁の仕事を辞めた。
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私も今では裁縫が趣味だが、母の影響は少ない。
小学校で家庭科の授業が始まり、自分だけの裁縫箱を持つようになった頃、大好きだった「クレヨン王国」シリーズから、挿し絵の三木由記子さんが監修する手芸など手作りを楽しむスピンオフ本が出たのがきっかけだ。
母から裁縫に関して教えてもらったことはあまりない。母は右利き、私は左利きで、母のやり方では私は編み物も上手く理解できなかった。
10年ほど前、母から急に、着物を縫ってみるか、と聞かれた時には驚いた。
何やらテレビで、絞り染めの技法が後継者不足で途絶えそうだというドキュメンタリーを見て、思い立ったのだという。
生活全てではないが、手作業に関しては比較的几帳面なタイプの私の針目が、細かくて正確なのは母も知っていて、着物に向いているかもしれないと思ったそうだ。
正直なところ、もっと早い時に教えたいと思ってくれたら良かったのに、と思った。
できれば、大学生の頃に。
当たり前のように企業に就職する前に。
しかし、たとえ当時、母にそんな気があったとしても、公務員か学校の先生になればという助言を、学校の先生なんかなりたくないわ!と一蹴した娘に、職人になればどうかなんて、言いにくかったことだろう。
どんな怖い顔で反論されることか。
私は母から、着物の縫い方を習うことにした。
母は右利き、私は変わらず左利きなので、やはり教えるのも教えてもらうのも難しかった。
もしいつか人様の着物を縫うつもりなら、右利きのやり方を学ぶべきかもしれないとは思ったが、取り敢えずこのまま縫ってみればと言うので、二人して左右の違いに頭を混乱させながら縫い進めた。
加えて、母の教え方は非常に感覚的だった。
ビャーっと縫って、ぐわっと返して、ぺろっとするねん。
長嶋茂雄から習っている気分だった。
母に教えた祖父も、こんな感じだったのだろうか。
母が昔作った長襦袢を解き、私のサイズに縫いなおす。
肌襦袢を縫う。
問屋で安く買った反物で、紬の着物を縫う。
そこまでは何とか乗り越えた。
しかし、浴衣を縫うために裁断を済ませた頃には、着物の仕立てを習うために実家に通うのを億劫に感じ始めていた。
とてもじゃないが、人様の着物なんて縫えないというのが、一番大きかった。
まっすぐ均等な針目でなければいけない、手汗で反物を汚してはいけない、針で指を突いて血で汚してはいけない、裁断を間違えてはいけない、左右をつけ間違えてはいけない、やり直して針穴が残ってはいけない、糸を馴染ませるために布を引っ張りすぎてびよびよに伸ばしてしまってはいけない…。
どれも当たり前のことだが、この反物が一点ものだったら、と考えるとゾッとした。
母も昔、最後の一巻という反物で裁断ミスをして、百貨店の呉服部の人と謝りに行ったことがあると言っていた。
着物を縫うのを趣味にするくらいがせいぜいだな、と思いながら、実家に通ったり先延ばしにしたりしているうちに、物理的に引っ越さなくてはいけなくなり、そのまま私の仕立て修行(みたいなもの)は立ち消えになった。
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趣味の裁縫は母の影響が少ないと書いたものの、母の娘なのだから裁縫くらいできるようでありたい、と思っていたのは確かだ。
先日縫って、色がちょっとおばあちゃんぽい…と自分で着るのを躊躇ったブラウスを、母にあげた。
喜んでくれたようで、会うたびに着てくれている。
おばあちゃんぽいと思ったことを、母の顔色が明るく見える色だからあげたのだと、都合の良いように自分の記憶が変えられないものかと思う。
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長々と、自分の話をしてしまった。
「北越雪譜」で大きな部分を占める、越後縮と機織りの女性の話を書くつもりだったのだが、辿り着かなかった。
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