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「北越雪譜」を読む:4

 なかなか具体的な内容に踏み込めないでいる…。

 牧之ぼくしさんに叱られない程度に、暖国の地から、もう少し雪国のことを考えてみたい。

 鈴木牧之記念館を訪ねた時、私にはもう一つ立ち寄りたいところがあった。
 新潟県上越市高田にある、瞽女ごぜミュージアム高田、という小さな博物館だ。

 ジェラルド・グローマー「瞽女うた」(岩波新書)を読んだのは、やはり「北越雪譜」を読んで雪国、越後、新潟というものに興味があったからなのだが、もう一つ、私のルーツが関係している。

 新潟出身の祖母は、いわゆる「口減らし」のために小さな頃に奉公に出された、と聞いている。祖母は明治の終わり頃に生まれたが、その頃の新潟は、現在の豊かな米どころというイメージからは想像できないくらい貧しかった。
 祖母の奉公先は、芸者の置き屋だったようだ。美人だったら芸者になれたのだが、出っ歯だったのでなれなかった、そうである。
 芸者さんにはなれなかったが、祖母は亡くなるまでずっと着物を着続けた。洋服を着ているのを観たのは、亡くなる前、入院先でのパジャマ姿だけである。叔母や母に言わせると、祖母の着こなしは特別で、この着物にこの帯を合わせるとは、と感心するような粋な組み合わせだったという。

 同じく新潟県出身の祖父は、着物の仕立て屋だった。叔母と母が後を継ぎ、デパートの呉服部門から依頼を受けて着物を仕立てる仕事をしていた。

 母は縫う専門で、着物を着る生活をしていないし、私に至っては、浴衣に限って、着付けの動画を見ながら汗をかきかき何とか着られるくらいしか、着物に触れていない。
 普段は縁遠いにも関わらず、私にとっての着物は、特別な日の華やかな装いという気がしない。それは、祖母の日常と共にあったもので、遠く新潟の芸能者と私を結びつけるという意味では、特別なものと言えるかもしれない。



 瞽女とは、門付かどづけと言って、家々をめぐり三味線の伴奏で歌う、盲目の女性旅芸人のことだ。
 映画にもなった水上勉の「はなれ瞽女おりん」が有名なので、ご存じの方も多いと思う。
「はなれ瞽女おりん」は、長岡瞽女の話で、高田瞽女とはまた違うのだが、私は特に雪深いという高田の街並みにも興味があった。雁木という、簡単にいえば雪を避けて通るためのアーケードのようなものが、江戸時代から残っている。

 お城の近くに車を停めて、雁木を辿って歩くと、瞽女ミュージアム高田があった。
 昭和初期の小さな町家をそのまま生かした室内で、畳に座って、瞽女さんの旅の様子を映したVTRを見ることができる。
 目の見える手引きを先頭に、目の見えない瞽女さんたちが連なって歩く様は、本で読んだ通りとはいえ、胸が締め付けられるようだった。春先になると瞽女さんが角付けにやって来たというが、春先とはつまりお正月であって、深く積もった雪の中を瞽女さんたちはやって来るのだ。

 高田ではどれくらい雪が積もるのか。
 最近では令和3年。一晩で1メートル、2日間で2メートルも積もったことが大きなニュースになった。
 有名なところでは、昭和20年。積雪3メートル以上の日が60日続いたという記録が残っている。この時の写真はインターネットなどで見ることができる。

 「北越雪譜」の中にも、高田の雪深さが分かる記述がある。

 高田の俳友楓石子よりの書翰に、天保五年の仲冬 雪竿を見れば当地の雪此節一丈に余れりといひ来たれり。

岩波文庫 北越雪譜 初編 巻之上
「雪竿」

 高田に住む俳句仲間からの手紙に、雪が一丈以上積もったことが書いてあったというのだ。
 雪竿とは、高田城の広場に、木を削って目盛をつけたものが建ててあって、これで雪の深さを測ったようだ。
 一丈は、だいたい3メートルなので、昭和20年の豪雪が、牧之の頃と同じくらいの規模だったことがわかる。写真を見て初めて、「北越雪譜」の挿絵にある小山のような雪の塊が、大袈裟な描写でないことが実感できるかもしれない。

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