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古本屋になりたい:7 知らんけど

 C.S.ルイスの「ナルニア国ものがたり」の中に、「馬と少年」という一冊がある。
 「ナルニア国ものがたり」は、異世界ファンタジーだ。人間界からやってきた少年少女が、ナルニアで冒険をする。

 ナルニアへ行く手段は様々だ。
 衣装ダンスを通って、あるいは不思議な指輪を使って、もしくは見覚えのある船の絵を見ているうちに。何か知らない力に引っ張られて、ということもある。

「馬と少年」が少し違うのは、ナルニアへやって来るのが、隣の国の少年だということだ。
 正確には隣ではなく、間にアーケン国という国があるのだが、とにかく、ナルニアと地続きの国から、主人公のシャスタはやって来るのである。

 徒歩なり馬に乗ってなり、物理的な手段で辿り着くという意味で、シャスタにとって、ナルニアは完全な異世界ではない。

 シャスタの故郷・カロールメンは強権的な王が支配する国で、北部には灼熱の砂漠が広がっている。王族が贅沢な暮らしをしているのに比べて、巷では差別と貧困が蔓延している。
 シャスタは、機嫌の悪い父に理不尽に殴られることもある。
 父に奴隷として売られそうになったシャスタは、もの言う馬・ブレーと共に、ナルニアを目指すことになる。

 現在の目で見ると、カロールメンという国は、中東あたりをイメージしたかなりステレオタイプな描かれ方をしている。
 作者のルイスは、熱心なキリスト教徒として有名だが、キリスト教を信じない国=悪、という見方は、現在でもしばしばなされる。それが世界の分断の要因の一つになっていることを考えると、異文化への理解が進んでいないことだけは、「馬と少年」が書かれた70年前と変わっていないと言えそうだ。

 物語の冒頭、シャスタは、父の指示で網の繕いやら洗濯やらをさせられていることが描かれる。父は貧しい漁師で、機嫌が良ければシャスタの質問に答えてくれることもあるが、虫の居所が悪ければたちまち横っ面を殴られる。

 シャスタは、父にそっくりな人たちが集まっているだけの南の方には興味がなく、北の方への憧れを持っている。それというのも、北の方へ行く者は誰もおらず、シャスタ自身も絶対に行くなと言われているからだ。
 あの丘の向こうには何があるのかと、シャスタは父に聞くが、機嫌が良い時でも、つまらないことに興味を持つな、と言われて終わりだった。
 遠くに見える草が生えた小高い丘の向こうは、空が広がるだけで何も見えないのだ。それでも、シャスタはあの向こうには何があるのかと思いを馳せた。

 シャスタが北に憧れて遠くを見つめたり、砂漠を超えて、カロールメン国の北の境に辿り着き、山国らしいアーケン国に到達したあたりを読むと、私はつい、身近な山を見渡したくなる。

 私の住む部屋からは、和泉山脈が見える。大阪と和歌山を隔てる山脈だが、最高峰は南葛城山の922メートルで、あまり越えられない壁という感じはしない。
 装備の揃わない昔の人でも、頑張れば乗り越えられただろう。
 春には、一番奥のグレーに見える和泉山脈から、手前の低い山に向かって徐々に色を取り戻し、野菜を買いに行く道の駅があるあたりの山は鮮やかな緑になる。
 あまりにも目に穏やかな景色なので、頭では県境だと分かっていても、ほとんど一幅の絵のようにしか見ていないところがある。

 昨年、知らんけど、という大阪弁が流行った。何にでも口を挟みたがる大阪人が多用する大阪弁の典型だ。
 今年も使っている人がいるかは知らないけれど、流行っていると言われたら、生粋の大阪人としては恥ずかしくて余り人前で使いたくない。早く廃れて、本当はシャイな大阪人に、知らんけどを返してほしい。

 ネットで調べてみると、知らんけど、は主に責任回避のニュアンスで、発言の最後に使われることが多いとされているようだ。根拠のない噂話などをした後で、知らんけど、と責任逃れをするというわけである。突き放すような使い方も、聞いたことがある。

 私自身が使う時はどうだろうかと考えると、多分に照れ隠しがあると思う。
 真面目な話を力説してしまったり、噂話をさも知っているかのように話したけれど昨日テレビで言ってたやつや、とふと思い出した時に、居心地の悪さを誤魔化すために、まあ知らんけど、とふわっと話を着地させるのである。
 知らんけど、で締めた話は蒸し返さないで、できれば違う話に移ってほしい。

 かれこれ25年ほど前、仕事帰りによく、一つ上の先輩とご飯を食べに行った。

 私は婦人服売り場、先輩は肌着売り場の担当だった。
 土日はほぼ出勤、月曜日は課長の集まる会議があるので部下たちは休日になりやすく、金曜日は土日のチラシに載る商品の品出しがあるので休めない。
 似た環境の私たちは仲良くなって、休みが合うと、先輩の車で遠出することもあった。

 先輩は、基本的には明るくてスポーツの好きな元気な女性だった。少し気が短くて怒りっぽいところがあり、すぐに落ち込んだ。
 私は元気な時の先輩と話すのが好きだったので、よく晩御飯に誘った。特に仕事場のお店の近くにあったデニーズにはよく行った。
 2時間でも3時間でも、ほとんどがくだらない話だったが、話は尽きなかった。

 声がきれいで、ちょっと鼻にかかった店内放送の声は、私の同期の男性陣に人気があった。言われ慣れていないのか、みんな声が好きって言ってますよ、と私が話すと、先輩は恥ずかしそうだった。

 時々、先輩が元気がないので、ご飯に行きましょう、と誘うこともあった。
 課長に怒られたとか、パートさんにキツく当たってしまったとか、お客さんに嫌な顔をしてしまったかもしれない、と落ち込んでいるのだ。
 私も社会人になったばかりで未熟なので、しっかりと人の相談に乗れるわけではない。

 まあ、しょうがないじゃないですか。
 いつも課長はあんな感じじゃないですか。
 〇〇さんは気にしてないと思いますよ。
 めんどくさいお客さんもいますもんね。

 先輩に寄り添った返しができることもあれば、正直なところ、もっとしゃっきりしろ、しょうもないことで落ち込むな、と思ってしまって言葉が出てこないまま、私まで黙りこくっていることもあった。

 ある時、そのまま黙っていれば良いものを、綺麗事に聞こえるようなことを言ってしまった自覚があったので、語尾に「知りませんけど」と付け加えたら、知らないなら言わないで、と言われてしまったことがある。
 「知らんけど」の責任回避、あるいは、突き放しの用法と取られたのだろう。
 先輩だから、敬語を使ったけれど。

 なんとなく気まずいまま解散しても、私は根に持たないタイプを装って、いつも次の日は元気いっぱいの後輩として先輩に接した。
 20年以上も経ってこんな文章を書くくらいだから、根に持っていないわけがないのだが、それでも先輩が嫌いなわけではなかった。

 そんな一回ごとに立ち止まっていたらしんどいでしょう、そんなしんどい人が隣の売り場で暗い顔をしているのを見るのは、正直言ってめんどくさいです、と言いたかった。
 私が元気なのを見れば、いちいち落ち込んでるのがバカらしくなるのではないかと思っていた。

 先輩は富山の人で、有給休暇を取って同僚たちと揃って遊びに行き、富山を案内してもらったことがある。

「やっばり猫が好き」というドラマがあって、先輩は面白いからと私にビデオを貸してくれた。
 もたいまさこ、室井滋、小林聡美が演じる恩田家の三姉妹が暮らすマンションの一室を舞台にした、シチュエーションコメディだ。
 特に三谷幸喜の脚本回が面白く、はちゃめちゃなストーリーが人気だった。

 ドラマの中で、次女役の室井滋が突然ほたるいか音頭を歌い出すシーンがあった。室井滋は富山県滑川市出身だ。

 私と先輩の中で、富山といえば室井滋、室井滋といえばほたるいか音頭、という共通認識があった。
 ほたるいかと聞けば、室井滋の歌い踊る姿が思い出されて、私たちは否応なく笑わされてしまう。

 一緒に行った他の友達はピンと来なかったかも知れないが、先輩は私を滑川市のほたるいかミュージアムに連れて行ってくれようとした。
 しかし、たまたまその日は休館日で、先輩はまた気分が沈みかけた。
 しょうがないしょうがない!と、私たちは近くの売店でほたるいかソフトクリームを食べた。

 滑川市の海辺で、私たちはずっと海の方ばかり向いていた。氷見では蜃気楼が見えるというが、滑川ではどうなのだろう、と私はひとり考えていた。

 ほら、立山が見えるよ!と先輩に言われて振り返ると、信じられないくらい高い位置に、山々が連なっていた。初秋だったが、山頂は雪を被っていた。
 写真では見たことがあっても、自分の目で見るのは初めての光景だった。

 高い山なら富士山を知っているが、富士山は単独峰だ。富士山の周りの山は、富士山にそっとその場所を譲ったかのように、緩やかに離れて立っている。

 立山連峰は、背の高い人たちが肩を組んでいる様だった。

 この山を見て育ったら、あの向こうには何があるのかと思いながら大きくなったかもしれない、と思った。

 色々な事情で私は先輩より先に仕事を辞めてしまったが、先輩も数年後に仕事を辞めて故郷に帰った。 

 お互い仕事を辞めて何年かは年賀状とメールのやり取りがたまにあるくらいだったが、数年後、先輩は結婚式に私を招待してくれた。

 お相手とは職場で出会ったそうだが、登山を趣味とする人で、時々一緒に山に行くという。

 そういえば、先輩は、大学の体育の授業で、立山に登ると単位がもらえたと話していた。登山が趣味というわけではなかったようだが、山が身近だったのは間違いなさそうだ。

 結婚式と披露宴の会場は、白馬岳の長野県側の素敵なホテルだった。
 富山駅までお迎えのバスが来てくれて、前夜そのホテルに泊まらせてもらい、式の当日は、山のひんやりした空気の中でゆったりと朝食を食べることができた。

 披露宴の終わり、花嫁が両親に感謝の言葉を述べる場面があった。
 先輩は時々言葉を詰まらせながら、お母さんに「あなたはそんなにダメな子かね」と言われたことを話した。お母さんにそう言われて、もっと自分に自信を持っていいんだと考えが変わったと。

 私が余計なことを言う必要はなかったんだな、と思った。
 同時に、あの頃余計なことを言ってしまっても、諦めずにまとわりついて、元気そうな時にはまたご飯に誘ったから、今日結婚式に呼んでもらえた、とも思った。

 それからも先輩は毎年年賀状をくれて、お子さんが生まれたことも分かった。
 私は筆無精で段々年賀状を出すのが億劫になり、そのうち先輩からも来なくなってしまったが、私がLINEを始めた時、真っ先に気づいて「もしかして△△ちゃん?元気?」と返信をくれた。
 先輩の、よく通る朗らかな声を思い出した。

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