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羅生門(1950)

羅生門(1950、大映、88分)
●原作:芥川龍之介
●脚本:黒澤明、橋本忍
●撮影:宮川一夫
●監督:黒澤明
●出演:三船敏郎、京マチ子、志村喬、森雅之、千秋実、上田吉二郎、本間文子、加東大介

芥川の原作だが『羅生門』というよりほぼ『藪の中』。

原作の『羅生門』的要素は終盤に出てくる。

当時日本人の観客にはあまり受け入れられなかったという評を見るが、それも納得。

今の目で見ても複数の人間のアングルから語られるある事件の真相という構成は複雑かつ難解。


まず死体を目撃、通報した第一発見者である杣売りの回想から始まるが、ここで有名な太陽を直接撮るショット。

お天道様は見ているぞということを言わんばかり。

多襄丸の回想が始まる場面では一瞬彼が空を見上げるがここでは太陽は雲に覆われている。

回想の中で多襄丸は馬に乗った真砂の垂れ衣が風によってめくれ上がった一瞬の彼女の顔の美しさに魔が差し、事件が起こったことになっている。

まるで自然のいたずらのようななかなかドラマチックな演出となっているが、映画全編を見てこれらの証言が嘘だという視点から見ると、女なら誰でもよかったけど、まるで彼女の魔力に導かれてしまったというふうにしておいてある種正当化を図ろうとしたとも思える。

当然被害者側である真砂、金沢の証言には多襄丸の初登場シーンというのはない。


多襄丸が一方的に真砂の唇を奪うシーンがあるが、終盤の杣売りの回想での真砂が多襄丸に唾を吐きかける場面と対比している。

その後の真砂の証言、巫女の口を借りた金沢の証言もまるで異なるものとなっている。

真砂の証言では彼女は、手籠めにされた自分を蔑みの目で見る夫の視線に耐えられず悲痛のあまり気を失うという徹底的に被害者である可愛そうな自分を強調する。

巫女の証言になんらかの恣意性があると仮定するとまた話が複雑に(おもしろく)なるが、その仮説を進めるには”非科学的”と断じる他にエビデンスが少なすぎるので、素直に口のない死人の証言を再現できる装置として受け入れるものとする。

そんな巫女=金沢の証言では彼は自ら死を選んだが、死後何者かによって刀が抜き取られたのだったという、冷静に聞いてみるといささか無理のある展開。

終盤、実は事件の一部始終を見ていたと告白する杣売りの証言が始まり、これが再現シークエンスの最終楽章となる。

ところがこの最後の再現場面ではこれまで快調に流れていた早坂文雄の音楽は流れない。

無音である。

冒頭の杣売りによる死体発見、多襄丸の証言、真砂の証言、金沢の証言のそれぞれ”藪の中”を舞台とする事件の再現シーンで必ず流れていた音楽が流れない。

あまりにみっともない、二人の男の取っ組み合いも全くの無音のため余計にその空虚さが際立つ。

聞こえるのはセミの声。

強烈な太陽の日差し。

セミの声。

そして羅生門に降り注ぐ土砂降りの雨。

季節は真夏だということが日本人の風土感覚として自ずとわかる。


英語で太陽はthe sunだが、日光や日向を言う場合は定冠詞を付けないsunで表現する。

フランス語でも定冠詞のle soleilと部分冠詞du soleilによって意味が変わってくる。

ただ元をただせば同じものだ。

この映画でも木漏れ日の光や雲間からの光が何度か画面に映し出される。

大きな太陽という存在も雲や木の葉というフィルターを通し別の形になるということを示しているのだろう。


目撃者である杣売りと旅法師に対して一人の下人が冷やかし半分ちゃちゃ入れていくが、それがニヒリスティックかつロジカルでかなり核心をついた鋭い物言いなのである。

一体正しい人間なんているのかよ。みんな自分でそう思ってるだけじゃねえのか。人間っていうやつは自分に都合の悪いことは忘れちまう。都合のいい嘘を本当だとおもってやんだい。その方が楽だからよ

嘘だと言って嘘を言うやつはいねえからな

そして最後は『羅生門』のラストの展開そのままに偽善を否定し人間のエゴを肯定した所業を見せつけながら去っていく。


しかしやはりこの映画では真砂を演じた京マチ子の存在感がすごい。

それぞれの証言場面の中でそれぞれ異なったキャラクターを演じている。

映画に出てくる人物はわずか8人(赤ん坊入れたら9人)。

どれが彼女の女優としての本質なのか全くわからないほどに演じ分けられていた。

それがまた、自己言及的というか、京マチ子の身体性そのものが『羅生門』的というか、多分脚本だけ読んだら辻褄とか重箱の隅つつくような読み方になるけど、彼女の存在によって嘘も本当らしく見えるし本当も嘘らしく見える。

「音楽がない」というコード(暗号)によってラストの杣売りの証言が真実という結論の裏付けになっており、真相がわからないままの原作『藪の中』とは異なっていますということなのだが、そう言われたとしてもあんまり納得できない。

この映画的ロジックからいけば結論は出たはずなのに、京マチ子の演技が全部迫力ありすぎて、すべてが真実らしく思えてしまって結局は藪の中。

そしてこれが意図的なのか偶発的なのかということに関しても、もう藪の中。



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