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【ぺん's グレイト ジャーニー 第3章~ぺん、母になる。「特別養子縁組」をへて】

40代前半に、次女を特別養子縁組という制度を使って、我が家に迎え入れた。

次女はダウン症。出会ったときは1歳だった。体が弱く、嘔吐症で、ミルクを毎回吐いた。月に1~3回、風邪をこじらせ入院した。筋力が弱く、2歳までずり這いだった。

10~20代、私は子供に興味がなかった。結婚する気も出産、育児する気も全くなかった。

ずーっと「家族」の形に違和感があった。「家族」という枠、固定概念に反発してきた。

ただ、「将来的には、血が繋がらない子供を養子として育ててみたいなぁ。血縁という枠組みを超越したい」と、20歳のときから思っていた。

そんな夢を歴代の彼氏に毎回話していたら、乗ってきたのが、今の夫(連れ)だった。

最初は結婚しないで、特別養子縁組する方法を模索した。日本では婚姻関係にない2人には、特別養子縁組が適用されない。

連れは、「そんな制度、変えてやる!」と意気込んだが、私は考え、「制度を変えることに今、時間と労力を使うぐらいなら、『戦略結婚』しよう!私たちを必要としている子供が待ってるよ。制度にもの申すのは後からでもできる」と提案した。

あれだけ結婚制度に乗っかるのが嫌だったのに、自分の変化に驚いた。

さて、そんな頃、親友が妊娠し、出産した。
とても楽しそうにしている姿を見て、元来楽しい事に目がない私は、「私もやってみたい!」と飛び付いた。

別の友人に、「でもさ~、ぺんちゃんが『血縁は関係ない』っていうなら、自分で産んだ子と養子の子と、両方を同じように愛して育てて、初めて信憑性が出るんじゃない?」と言われたことも後押しした。

連れに話すと、「養子縁組が先だろう!」と譲らず..。話し合い、結局、養子縁組と妊娠を同時に進め、とんとん進んだ方を先にすることとした。

すると、あっという間に妊娠。

妊娠、出産してからも、都の特別養子縁組の研修に出たり、面接を受けたりした。何度か、養子のお話をいただいたが、私たちは選ばれなかった。

長女が5歳のとき、次女の話がやってきた。都の担当者は、「ぺんさんの所しかない!」と確信し、話を持ってきたそうだ。

次女が来てから、私の世界は一変した。
次女が、「私が私らしく生きること、私のミッションとビジョンを生きること」に、愛と勇気をくれた。

今、次女は5歳。
元気いっぱいに走り回っている。

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