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【ぺん's グレイト ジャーニー 番外編 ~父の怒り】

※読む方によっては辛い内容も含みます🙇

8年前に他界した父は、
町の小さなスーパーを経営しながら
塗装屋としても働いていた。

365日朝から晩まで働き、
タバコ、酒を飲み、よく遊んだ。
母は父によく泣かされた。

娘2人を愛し、特に私は溺愛されていた。
パワフルで頑固、情に厚く気性も激しかった。

若い頃、「泥棒だー!」という近所の叫び声に風呂に入っていた父は裸で外に飛び出し
泥棒を捕まえたそうだ。
叔父が話していた伝説。

私は男じゃなくて本当によかったと
小さい頃から思っていた。
父にそっくりな「息子」になりたくなかった。

忘れられない光景がある。
大学生の頃、父がいつものように
お酒でベロンベロンになり寝ていた。

その時、テレビで森進一の「おふくろさん」が流れてきた。すると、父がポロポロ涙を流し始めた。

どうしたのか聞くと、涙を流しながら次のような内容を教えてくれたのだ。(翌日、私に話したことは覚えていなかった)

父の母親(私にとっては祖母)は早くに離婚し、父を含め、5人の子供を育てていた。とても貧しくて、父はいつもお腹をすかせていた。

ある日、小学高学年の父が家に帰ると、母親が首を○っていた。とっさに父は、妹や弟に見せてはいけないと母親をおろし、身なりを整えて、近所の人に助けを求めたそうだ。

それ以来、父は小学生だったが魚の行商人として働き、生活を支えた。妹や弟の学費を出し、就職を見守り、妹や弟が結婚するまでは自分は結婚しないと決めたらしい。

父が結婚したのは、30代後半だった。昭和10年生まれの父の時代には珍しいだろう。

だから、叔父や叔母は父に頭が上がらない。兄弟姉妹たちには強い結束があり、父の介護をみんなで支えた。

父はいつもずっーと怒っていた。
私は学校から帰ると、「父さんは今日は怒ってないかな?」と様子をうかがっていた。私は影で「怒りの人」と呼んでいた。

父は、自分が背負ってきた貧しさに、不条理に怒っていた。そして、私が、その怒りの下にある深い深い悲しみと痛みに気づいたのは、大学生の時だった。

父さん、ずっと辛かったんだね。
ずっと苦しかったんだね。
ずっと我慢していたんだね。

ずーっと誰かのために生きてきた父は、晩年、脳梗塞になり、今度は自分が助けや支えを受ける番となった。

存分に「助けれる側」を体験した父は、姉と私が水面下で特養に移す動きをしているときに亡くなった。姉も私も、「父さんのプライドだね」と語り合った。

後日、父がいた老健のベテランのワーカーさんが教えてくれた。「お父様は何度も肺炎を繰り返し、体力的にも限界だったと思います。なんとか踏みとどまったのも、お孫さんを見たかったのだと思います」と。

失くなる数ヶ月前に生まれた長女(父にとって初孫)をできる限りで父に会わせていた。子供好きの父は、2番目の子を特別養子縁組で迎える考えにも賛成してくれていた。

父さん、見てるよね?
私は父さんの子で本当によかったよ✨

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